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<title>福音のヒント</title>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/33200911151324-.html">
<title>年間第33主日　(2009/11/15　マルコ13章24-32節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」 ダウンロードができます...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text1115.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1115.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1115.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　教会暦で年間最後の3つの主日(第32、33主日と王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれます。聖書朗読は、世の終わりの救いの完成に目を向ける内容になっています。今年・B年では、きょうの第33主日にもっともはっきりと「終末主日」の性格が表れています。ちなみに、来週の「王であるキリスト」の福音はヨハネ福音書が読まれますので、今年主に読まれてきたマルコ福音書の朗読は、きょうが最後ということになります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=252,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/11/06/1119.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;1119&quot; height=&quot;119&quot; alt=&quot;1119&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/11/06/1119.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　 　(1)　きょうの箇所は、マルコ13章5節に始まり37節(13章の終わり)まで続く長い説教の一部です。13章のはじめにこの説教が語られた状況が記されています。「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか。』イエスは話し始められた･･･」(13章1-5節)。&lt;br /&gt;　ガリラヤから出てきた弟子たちはエルサレムの都の壮麗な神殿の建物を見て圧倒されます。彼らはこれこそ確かなものだと思ったのでしょう。それに対して、イエスは「これは滅びていくものだ」ということを語り、神殿を見ながら弟子たちに向けてこの遺言のような説教を語りました。イエスはこの中で、偽(にせ)キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などというこれから起こることを語ります。そしてその後、最後に起こることを語るのがきょうの箇所です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (2)　24-27節には、旧約聖書から採られたさまざまな表現が用いられています。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24-25節)は、イザヤ13章10節などに見られる表現で、決定的な神の裁きの日の到来を表すしるしです。&lt;br /&gt;　「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(26節)という表現は、ダニエル書に基づいています。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7章13-14節)。本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でしたが、この箇所から特別な意味を持つようになりました。それは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神が最終的に遣わす審判者&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という意味です。この箇所でマルコは、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;栄光のうちに再び来られるキリスト&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;(再臨のキリスト)を「人の子」と呼んでいるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (3)　そもそも聖書の中で「世の終わり」についてのメッセージが語られる背景には「迫害」という厳しい現実がありました。紀元前2世紀に書かれたダニエル書はその典型です。この時代はギリシアから起こったヘレニズム王朝がパレスチナを支配していました。特にセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネス王の時代に、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生活することを禁じられました。熱心なユダヤ人の中には殉教する人もいました。それは神に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代でした。その中で「&lt;u&gt;&lt;strong&gt;この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;」と語り、迫害の中にいる信仰者を励まそうとしたのがダニエル書です。迫害の最中ですから、直接的な表現は許されません。そこで時代を紀元前6世紀という過去に設定し、捕囚の地バビロンでダニエルという人が見た幻として、今起こっていることと将来起こることを描くのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (4)　ですから基本的に終末のメッセージは&lt;strong&gt;&lt;u&gt;希望のメッセージ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;なのです。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的に神のみ心が実現する！ &lt;br /&gt;　23節までの説教でイエスが予告した「偽キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊」などという出来事は、マルコ福音書が書かれた時代(紀元後70年ぐらい)には、もうすでに実際に起こっていることでした。その中で、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;実は救いの日は近づいているのだ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、と語るのです。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マルコ13章28-29節)。&lt;br /&gt;　一方、32節には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉があり、続く33節には「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;気をつけて、目を覚ましていなさい&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とあります。ここでは終末がいつであるかは分からないという面が強調されていて、むしろ&lt;strong&gt;&lt;u&gt;警告のメッセージ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;になっています。世の終わりはまだ先のことだと思い、生き方がなまぬるくなり、自分の利益や目先の快楽に振り回されているとき、「そうではない。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神の決定的な裁きは突然やってくる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」と語ることによって、神のみ心にかなう生き方をするように、と警告するのです。わたしたちの現実はどうでしょうか？　わたしたちの中には両面があると言えるかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目に見えるものに振り回されている現実。そんなわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (5)　イエスはこの中で「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしの言葉は決して滅びない&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(31節)と語ります。13章のはじめで弟子たちは、目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それはいつか滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのです。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;愛は決して滅びない&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(Ⅰコリント13章8節)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか？ &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

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<title>年間第32主日 (2009/11/8　マルコ12章38-44節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」 ダウンロードができます...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text1108.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1108.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1108.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　マルコ福音書では11章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざまな人と出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派という人々です。彼らは当時の社会の中で富や権威を持っている人々でしたが、彼らとイエスとの対立は深まるばかりでした。唯一イエスが評価したのが、最後に出会った一人の貧しい「やもめ」の姿です。イエスはこの後、13章で神殿を出て行き、その東にあるオリーブ山から神殿を眺めながら、弟子たちに向けて神殿の崩壊を予告し、「決して滅びない」(13章31節)ものへの信頼を説いていくことになります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=222,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/10/31/1112.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;1108&quot; height=&quot;74&quot; alt=&quot;1112&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/10/31/1112.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　(1)　イエスの時代のエルサレムの神殿には多くの富が集まっていました。そこには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。サドカイ派の中にも律法学者はいましたが、律法学者の多くはファリサイ派に属していました(マルコ2章16節参照)。ファリサイ派は律法とそれを何世代もの学者が細かく解釈していった「口伝(くでん)律法」を大切にし、厳密に守ろうとした派です。中でも律法に精通していた律法学者は、律法によって民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (2)　イエスの律法学者やファリサイ派の人々に対する数々の批判は、マタイ23章1-36節やルカ11章39-52節にも伝えられています。マルコのこの箇所で、イエスは何を批判しているのでしょうか。それは結局のところ、彼らの行動のすべてが「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人に見せるため&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(マタイ23章5節参照)だということでしょう。彼らは祈りまでも見せびらかし、自分が人より優位に立つための手段にしてしまっているというのです。&lt;br /&gt;　福音書の中でこのような律法学者への批判が語られるとき、それは教会の指導者への警告でもあります。いや、特別な指導者だけでなく、この&lt;strong&gt;&lt;u&gt;律法学者の姿は、わたしたち皆の生き方への警告&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;だとも言えるでしょう。自分は人からどう評価されているか、少しでも人から評価されるためにはどうしたらいいか？　わたしたちもそのような思いから完全に自由だとは言えないでしょう。しかし、そこにとどまっている限り本当の意味での神とのつながり、人とのつながりを生きることにはならないのです。&lt;br /&gt;　この批判の中には「やもめの家を食い物にする」(40節)という言葉が出てきます。これは41節以下のやもめの話との関連でマルコが別の伝承から挿入した言葉でしょうか。やもめにとって夫の遺産の相続問題は死活問題だったでしょう。このような遺産相続などのもめごとの裁定も律法学者の役割でした。やもめの弱い立場に付け込んで当時の律法学者たちは自分の利益を上げていたということなのでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　この律法学者と正反対の立場にいたのが「やもめ＝寡婦(かふ)」でした。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;聖書の中で、寡婦は、寄留の他国人や孤児(＝みなしご)と並んで、いつも社会的弱者の代表&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;です。「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(出エジプト記22章20-22節参照)。&lt;br /&gt;　寄留者とは、周囲に自分を守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、寡婦は古代の男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。そしてだからこそ、この人々を大切にすることを律法は要求していたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　当時の神殿の境内には、神殿の建物から一番遠いところに「女性の庭」と呼ばれる部分があって、女性はそれより奥には入れませんでした。この女性の庭にあった賽銭箱(さいせんばこ)は、13個のラッパ型をした雄牛の角(つの)が並んでいたものだったそうです。今回のイラストはその想像図ですが、正確な形はよく分かりません。レプトン銅貨はユダヤの最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは1日の日当と言われていて、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円玉1枚ぐらいの価値でしょうか。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、1デナリオンの64分の1(1レプトンの倍)にあたります。イエスが賽銭を入れる様子を見ていたというのは、不思議な感じがしますし、なぜ、このやもめの献金が彼女の生活費の全部だと分かったかというのも不思議です。しかし、もちろん、この箇所ではそういうことは問題ではなく、神の前での人間の真実のあり方が問われているのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (5)　彼女が賽銭箱に入れたものは「生活費のすべて」(44節)と言われていますが、「生活費」と訳されたギリシア語の「ビオスbios」には「人生」「生活」の意味もあります。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;生活のすべてを神に差し出した&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」と受け取ることもできるでしょう。&lt;br /&gt;　全財産を差し出してしまえば、残るものは何もありません。このやもめの献金はやはり無謀でしょうか？　この日のミサの第一朗読で読まれる列王記上17章の物語も似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで／壺(つぼ)の粉は尽きることなく／瓶(かめ)の油はなくならない」(列王記上17章14節)という神の言葉が実現した、という話です。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;すべてを差し出したところに神の救いの力が働く&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;という体験がわたしたちの中にもあるでしょうか。&lt;br /&gt;　&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスの受難・死・復活の道が、まさにそういう道だった&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;とも言えるでしょう。　神殿で出会った商人や金持ち、社会的・宗教的指導者たちの姿にイエスは心を動かされませんでした。彼らの生き方とイエスの生き方はあまりにもかけ離れていました。イエスが最後に出会ったのがこの貧しい女性です。そしてイエスはこの人の姿以外に、神殿に真実なものは何もなかった、と言うかのように、神殿を後にしていきます(マルコ13章1節)。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

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<title>諸聖人　(2009/11/1　マタイ5章1-12a節)</title>
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<content:encoded>&lt;table id=&quot;AutoNumber1&quot; bordercolor=&quot;#111111&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; width=&quot;400&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;BORDER-COLLAPSE: collapse&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;406&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;教会暦と聖書の流れ&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text1101.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1101.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1101.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　11月1日は諸聖人の祭日で、年間主日と重なるとこの祭日のほうが優先して祝われます。ラテン語で聖人を表す言葉は(複数形では)「サンクティsancti」や「ベアティbeati」です。sanctiのほうは「神の人、聖なる人」の意味ですが、beatiのほうは「幸いな人、祝福された人」の意味です。この日のミサの福音では、マタイ福音書の「山上の説教」の冒頭の箇所が読まれます。8つの「幸い」(ギリシア語複数形で「マカリオイmakarioi」)は、ラテン語ではbeatiと訳されます。聖人とは、まさにこの「幸いな人」と言えるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(1)　 きょうの箇所は「8つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。マタイ5～7章の長い説教は「山上の説教」と呼ばれますが、その冒頭にこの8つの幸いの言葉があります。山上の説教は、イエスがある時に語った長い説教が記録されていたというよりも、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。何のために初代教会の人々は、これらのイエスの言葉を集めたのでしょうか。内容から考えて、これらの言葉は、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示す言葉として集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず最初に「幸い」という祝福の言葉が置かれているのも納得できるでしょう。 (今回の写真は、イエスが山上の説教を行ったと考えられるガリラヤ湖のほとりの丘に、それを記念して建てられた教会堂の写真です)&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　マタイの「8つの幸い」の前半4つと、よく似ているルカ福音書の「3つの幸い」を比べてみましょう。&lt;br /&gt;マタイ5章3節 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。&lt;br /&gt;5章4節 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。&lt;br /&gt;5章5節 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。&lt;br /&gt;5章6節 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。&lt;br /&gt;ルカ6章20節 &lt;strong&gt;&lt;u&gt;貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;21節 &lt;strong&gt;&lt;u&gt;今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;　　　&lt;strong&gt;&lt;u&gt;今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;　マタイ5章3節とルカ6章20節、マタイ5章6節とルカ6章21節前半は多くの言葉が共通しています。マタイ5章4節とルカ6章21節後半も内容的にはよく似ています。もともと1つのイエスの言葉が伝えられていくうちに2つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。&lt;br /&gt;　なお、マタイ5章5節の「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、この言葉は、詩編37編11節の引用と言えます。新共同訳聖書で、詩編のこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されていますが、｢貧しい｣と｢柔和な｣はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」という言葉(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表す言葉)です。古代の写本の中には4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置いている写本があります。この句はおそらく、イエスの言葉が伝えられていくある段階で、｢心の貧しい人々は｣の句を説明するために挿入されたものでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (3)　「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは&lt;strong&gt;&lt;u&gt;目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;なのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。この箇所の直前、マタイ4章24節によれば、イエスのもとに集まってきた群集は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」でした。このまさに「貧しい人々」に向かって、イエスは「幸い」と呼びかけたのです。&lt;br /&gt;　｢貧しい人｣｢飢えている人｣｢泣いている人｣がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウスbasileus)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。｢満たされる｣｢慰められる｣という受動形は、神的受動形と言われるもので、実は｢神が満たしてくださる｣｢神が慰めてくださる｣という意味です。ここでも同じように神のいつくしみと救いが約束されていますが、これこそがイエスの「福音＝よい知らせ」だったのです。わたしたちはこの言葉を、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしたち自身に向けられた「福音＝よい知らせ」として聞くこと&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ができるでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　「心の貧しい」は、直訳では｢霊に(霊で)貧しい｣で、｢神の前に貧しい｣ことと受け取ったらよいでしょう。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;の姿を示そうとしているのだと考えられます。なお、「心の貧しい人」にあたる箇所を、フランシスコ会訳聖書は｢自分の貧しさを知る人｣と訳し、共同訳聖書(新共同訳の前に作られた翻訳)は｢ただ神により頼む人｣と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、この言葉を理解するための参考になります。なお、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」としています。ここでもマタイは単なる物質的な飢え渇きだけでなく、神との関係を強調していると言えるでしょう。&lt;br /&gt;　マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」｢義のために迫害される｣という生き方です。｢8つの幸い｣というマタイの形は全体としては、単なる祝福ではなく、その&lt;strong&gt;&lt;u&gt;祝福の中を生きるとは具体的にどういうことか&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;をも示しているのです。聖人の生き方とはまさにそのような生き方だったと言えるでしょうし、わたしたちもまた、同じ生き方に招かれているのです。(ちなみにルカでは別の発展が見られますが、今回は触れることができません)。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

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<dc:date>2009-10-23T17:06:09+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/30200910251046-.html">
<title>年間第30主日　(2009/10/25　マルコ10章46-52節)</title>
<link>http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/30200910251046-.html</link>
<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」 ダウンロードができます...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text1025.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1025.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1025.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　イエスのエルサレムへの旅は、ガリラヤに始まり、ヨルダン川を下ってきて、エリコの町に到着しています。ここまでは130kmほどで、エリコからエルサレムまでは残り30km足らずです。マルコ福音書では、この話の後(11章)はもうエルサレム入りの場面ですので、エルサレムへの旅も終わりに近づいていることになります。イエスに従うことのできなかった金持ちの男(10章17-22節)やイエスの受難の道を理解していなかった弟子たち(10章35-45節)の姿と対照的に、イエスに従っていったバルティマイの姿が伝えられています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=250,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/10/16/1029.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;1025&quot; height=&quot;120&quot; alt=&quot;1029&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/10/16/1029.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　 (1)　47節でバルティマイは、イエスのことを「ダビデの子」と呼びますが、これは彼自身がそう考えたというよりも、彼が聞いていた周りの人々の噂だったのでしょう。ダビデは紀元前1000年ごろのイスラエルの王で、「ダビデの子」というメシア(救い主)の呼び名には、ダビデ王の再来である理想的な王のイメージがあります。ローマ帝国の支配下にあった当時のユダヤでは、ローマの支配を打ち破り、ユダヤ人を解放してくれる王を意味していました。イエスに対するこのような期待は、イエスがエルサレムに近づくに従って膨れ上がっていたようです(マルコ11章10節参照)。　&lt;br /&gt;　「わたしを憐れんでください」は物乞いをするときにいつもバルティマイが使っていた言葉なのでしょうか。イエスの周りにいた人々はこのバルティマイを黙らせようとします。王・メシアかもしれないイエスは重要人物で、何の役にも立たない「盲人の物乞い」など用がないと人々は考えたのです。しかし、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスは彼の叫びを聞きます&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　49節の「安心しなさい」はむしろ「勇気を出しなさい」と訳したほうが原文のニュアンスに近いでしょう。「お呼びだ」と訳された言葉は、直訳では「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;彼があなたを呼んでいる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」です。&lt;br /&gt;　50節「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;上着を脱ぎ捨て、躍り上がって&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」はバルティマイが「盲人の物乞い」であったことを思えば、たいへんなことでしょう。この上着はおそらく彼の唯一の財産でした。そして、彼は目が見えないのですから、ふだんはそれを肌身離さず持ち歩き、歩くときは事故のないように細心の注意を払いながら歩いていたはずです。それなのに彼は、自分の持ち物も自分の安全も手放すかのようにイエスのもとに向かいます。&lt;br /&gt;　それは「イエスが自分を呼んでいる」と知ったからです。この方は自分を邪魔者扱いしない。すべての人に邪魔者扱いされる中で、イエスという方だけは自分に目を留め、自分を呼んでくださる！　バルティマイのこの喜びを感じとれるでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　イエスはバルティマイに「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;何をしてほしいのか&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」と問いかけます。9章36節でイエスが弟子のヤコブとヨハネに聞いたのと同じ問いです。自分たちに高い地位を約束してほしい、というヤコブとヨハネの願いにイエスは答えませんでした。しかし、バルティマイの願いには答えます。バルティマイの願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」というものでした。これも自分の利益を求めている願いではないでしょうか。二人の弟子の願いとバルティマイの願いは、どこが違うのでしょうか。バルティマイの願いが単なる願望以上のもの、苦しみの中からの必死の叫びだったということは大切でしょう。イエスは受難と死に向かう旅の最後まで、このような叫びに耳を閉ざすことはないのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;あなたの信仰があなたを救った&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」は、マルコ福音書では、5章34節で出血の止まらない病気がいやされた女性に向かって言われた言葉でした。この「信仰」は、「イエスはダビデの子である」と信じるような頭の中の信仰ではありません。「この方ならなんとかしてくださる」という必死の思いでイエスに向かっていった態度そのものです。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;自分の希望と信頼のすべてを神とイエスにかける&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、と言ってもいいかもしれません。&lt;br /&gt;　52節の「なお道を進まれるイエスに従った」は、直訳では「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;その道の中でイエスに従った&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」です。この道はもちろんイエスのエルサレムへの道、受難と死に向かう道です。バルティマイは「行きなさい」と言われたにもかかわらず、イエスに従うことを選びました。　このバルティマイの姿は、結局のところ財産を頼りにしてイエスに従うことのできなかった金持ちの男や、自分たちの栄誉を求めていた弟子たちの姿とはっきりと対比されています。マルコ福音書はバルティマイの中に「十字架への道を歩むイエスに従う人」の典型的な姿を見ていると言えるでしょう。&lt;br /&gt;　ただし、イエスに従っていた弟子たちはイエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまっています(マルコ14章50節)からバルティマイはその時どうしたのか、と考えたくなるかもしれません。マルコ福音書はこれについて何も語っていません。ただマルコは、この箇所でこの人をはっきりと「バルティマイ」という名で紹介しています。マタイやルカにもこの話は伝えられていますが、いやされた人の名前はありませんし、そもそもイエスによっていやされた人の名前が伝えられていることはめずらしいことです。もしかしたら、バルティマイは、マルコのいた教会の中で知られていた人物だったのではないでしょうか。だとしたら、彼はこの出会いをきっかけに、生涯イエスに従い続けたと想像できるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　バルティマイは&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスに出会って救われた、という喜びと感謝の心&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;からイエスに従いました。十字架への道を歩むイエスに従うということは、おそらく&lt;strong&gt;&lt;u&gt;能力や努力の問題ではない&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のです。イエスの弟子たちは最後までイエスに従うことができませんでしたが、それで終わりになったのではなく、復活したイエスとの出会いによって、再び弟子として歩み始め、そして多くの弟子が殉教していくことになりました。彼らを突き動かしていたものも、復活したイエスが自分たちに姿を現し、声をかけ、再びご自分の弟子として受け入れてくださった、という喜びと感謝ではないでしょうか。&lt;br /&gt;　もしも、わたしたちの中にそういう経験があったとすれば、バルティマイの物語は、今のわたしたちの物語にもなるでしょう。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

<dc:creator>ct</dc:creator>
<dc:date>2009-10-16T16:26:23+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/29200910181035-.html">
<title>年間第29主日　(2009/10/18　マルコ10章35-45節)</title>
<link>http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/29200910181035-.html</link>
<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」 ダウンロードができます...</description>
<content:encoded>&lt;table id=&quot;AutoNumber1&quot; bordercolor=&quot;#111111&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; width=&quot;400&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;BORDER-COLLAPSE: collapse&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;406&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;教会暦と聖書の流れ&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text1018.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1018.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1018.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　場面はエルサレムへの旅の途中で、マルコ福音書の3回目の受難予告(10章32-34節)に続く箇所です。「受難の道を歩むイエスに従う」というテーマは先週の福音(10章17-31節)から続いています。これまで2回の受難予告同様、ここでもイエスの受難の道について無理解な弟子たちの姿が表われていますが、この弟子たちに向けて、イエスはご自分の受難と死の意味をもっともはっきりと語られます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=228,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/10/09/1022.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;1018&quot; height=&quot;76&quot; alt=&quot;1022&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/10/09/1022.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　(1)　ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ペトロと並んで弟子たちの中でもっともイエスの近くにいた弟子です。彼らは「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)とイエスに話しかけます。この遠慮がちな頼み方は、彼ら自身、自分たちの願いがイエスの思いとは違うかもしれないという予感を持っていたことを表しているのかもしれません。二人の願いは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものでした。イエスが何度もご自分の受難を予告していたにも関わらず、彼らはそれを受け入れることができず、ただイエスが栄光を受けることしか考えていません。二人の願いは、その栄光のときに、他の弟子を差し置いて自分たちに特権的な地位が与えられるように、という願いです。&lt;br /&gt;　「&lt;u&gt;&lt;strong&gt;杯&lt;/strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;(さかずき)&lt;/span&gt;」&lt;/u&gt;は普通、救いと喜びのシンボルです。しかし、日本語にも「苦杯をなめる」という表現があるように、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;苦しみのシンボル&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;にもなります。ここではもちろん「苦しみの杯」の意味です。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;洗礼&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」もわたしたちにとっては救いと喜びのシンボルですが、洗礼(ギリシア語の「バプティスマbaptisma」)の元の意味は「水に沈めること、浸すこと」ですから、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;死のイメージ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;もあります。ここでは「死」のイメージで語られています。イエスは、自分と同じ苦しみと死を引き受けることができるか、と問いかけるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　二人の弟子はどこまでこの言葉を理解していたのか分かりませんが、39節で「できます」と答えます。イエスの栄光にあずかるためなら、彼らはどのような苦しみにも耐える覚悟ができていたのでしょう。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」。ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています(使徒言行録12･1-2)。しかし、イエスは報いとしての地位を彼らに約束しません。「定められた人々にゆるされる」というのは、「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と言うのです。&lt;br /&gt;　他の10人は腹を立てます。彼らが腹を立てたのは、自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネが抜け駆けしようとしたからでしょう。そうでなければ腹を立てる必要はないのです。「人よりも先になりたい、上に立ちたい」という願望がいかに強いかを感じさせられます。そこから自由になることは簡単ではないのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (3)　「異邦人」は「あなたがた(弟子たち)」と対比させられていますから、ここでは「神やキリストを知らない人々」の意味だと言えるでしょう。「支配し」「権力を振るっている」は明らかに悪い意味で、人々を苦しめる権力の乱用のことです。「仕える者」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。「仕える」は「人のために働くこと」を表す言葉です(なお今のカトリック教会で使われる「助祭」という言葉の原語がこれです)。「僕(しもべ)」はギリシア語では「ドゥーロスdulos」で、こちらは働きの内容よりも「主人」との関係を表す言葉です。ここでは両方とも同じような意味で使われています。「仕える」「僕になる」という言葉には、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人のためにサービスする&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という面がありますが、もう一つには「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;自分を低くする、自分を無にする&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という面もあると言えるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (4)　45節のはじめには、新共同訳聖書では翻訳されていませんが、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;なぜなら&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という言葉があります。ここで弟子たちが「仕える者」「僕」になるべき理由が示されるのですが、それはイエスご自身の生き方がそうだから、ということになります。この45節は、マルコ福音書の中でもっとも明確にイエスの使命と死の意味が語られる箇所です。&lt;br /&gt;　イエスが来たのは「仕えるため」でした。これは生涯の最後の受難に向かう歩みだけでなく、これまでのイエスの歩み全体を貫く姿勢を表しています。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;身代金&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」と訳された言葉はギリシア語で「リュトロンlytron」です。本来は奴隷を解放するために支払う代金のことを意味したので「身代金」と訳されています。しかし、この言葉はイスラエルの歴史をとおして、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放した、その神の救いのわざ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;を指すようにもなりました。イエスの死は人々を解放し、命に導くためのものなのです。&lt;br /&gt;　なお「多くの人」という言葉は、日本語では「すべての人ではない」というニュアンスに聞こえてしまうかもしれません。しかし、元のアラム語では「すべての人」の意味も含まれているそうです。イエスの十字架がもたらす救いを特定の人だけに限定して考えることはできないでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (5)　マルコは生き方全体から死だけを切り離して、そこに意味があるというのではなく、イエスの死を&lt;strong&gt;&lt;u&gt;「仕える」というイエスの生き方の頂点&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;として示しています。このことは大切です。だからこそ、マルコはイエスのなさったこと一つ一つをていねいに伝え、その生き方をわたしたちがしっかり見つめるように促しているのだ、と言えるでしょう。&lt;br /&gt;　「仕える」「僕になる」という生き方は、現代では流行(はや)らない生き方でしょうか。わたしたちの社会は、「人は皆、平等であり、皆、上昇志向があり、だから競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする」という社会だと言えるかもしれないからです。イエスはそのような考え方、生き方に挑戦してきます。「仕える者になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ･･･。わたしたちはこのイエスの言葉をどのように生きることができるのでしょうか？ &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

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<dc:date>2009-10-09T17:34:39+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/28200910111017-.html">
<title>年間第28主日　(2009/10/11　マルコ10章17-30節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」 ダウンロードができます...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text1011.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1011.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1011.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　マルコ福音書の2回目の受難予告(9章31節)の後、受難の道を歩むイエスに従うとはどういうことかを示す言葉や物語が続いています。きょうの箇所の冒頭の「イエスが旅に出ようとされると」はガリラヤからエルサレムへの旅のことです。ここでは、「イエスに従う」ということが、よりはっきりとしたテーマとして表れています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=226,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/10/02/1015.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;1011&quot; height=&quot;75&quot; alt=&quot;1015&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/10/02/1015.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　(1)　ある人がイエスに「善い先生」と呼びかけ、教えを乞います。この人はイエスの素晴らしさを認め、その教えを聞こうとしてイエスに近づいてきたようです。しかしイエスはなぜか「善い」という言葉にこだわります。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)。イエスは「善い者」であるはずですから、不思議な感じもありますが、イエスはここでこの人の心を、ご自分にではなく、次節の神の掟に向けさせるために、あえてこのように言っているのかもしれません。 &lt;br /&gt;　19節の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」は十戒の言葉です(出エジプト記20章12-16節、申命記5章16-20節)。十戒は神に救われた民の神との関係、他の人との関係の根本を規定したものですが、ここではその後半の人間関係についての掟が引用されています。この人は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言います。この人は道徳的に立派な人だったと言えるのでしょう。&lt;br /&gt;　イエスはこの人に対して「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言い、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;財産をすべて貧しい人に施し、イエスに従う&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことを求めます。この厳しさはなんでしょうか。イエスご自身が受難への道を歩み始めていることと関係があるのでしょうか。&lt;br /&gt;　イエスの要求の厳しさは、精一杯受け止めるべきでしょう。実際に2000年のキリスト教の歴史の中で、多くの人がこのようなイエスの呼びかけに応えようとしました。キリスト教とはそういう人々の歩みそのものだと言ってもよいのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　 　(2)　ただし、だからと言ってイエスの呼びかけに応えられない自分はダメだと決めつけるべきでもないでしょう。イエスはこの金持ちの男のすべてを否定したとは思えません。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;慈しんで&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(21節。ギリシア語で「アガパオーagapao」)という言葉には、イエスの深い愛が感じられます。イエスはすべての人にこのような要求をしているわけでもありません。ルカ19章1-10節に徴税人の頭(かしら)で金持ちであったザアカイの物語があります。ザアカイはイエスに出会い、救いを受け取ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。イエスはザアカイのこの決意を良しとしています。なぜ、きょうの箇所ではすべてを捨てて、貧しい人に施す、ということが要求されているのでしょうか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (3)　イエスはこの男に「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言います。それはこの人の生き方の問題に気づかせるためだったのではないでしょうか。イエスの言葉を聞いて、彼は「悲しみながら立ち去」りました。こうして、彼が「自分の財産」を頼りにしていたことが明らかになってしまうのです。&lt;br /&gt;　25節の「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という言葉は、もちろん、それが不可能だ、という意味です。これを聞いて、弟子たちは驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言います。当時のユダヤ人にとって、財産は神からの祝福のしるしでした。また、ある程度の財産があり、生活に余裕があったほうが、律法に忠実な生活を送れるという考えもあったでしょう。イエスはそのような考えとまったく違うことを言っています。なぜでしょうか。それはもちろん、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;財産があれば、自分の財産を頼りにして、神に信頼する生き方を見失う&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ということを意味しているのでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (4)　イエスが常に指し示していたのは、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;すべての人の父(アッバ)である神への信頼に生きること&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;でした。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)という言葉は当たり前のことを言っているようですが、実は大切なことを言っています。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;救いの根拠は「人間にできること」ではなく「神の愛」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;なのです。ここに登場した金持ちの人は、永遠の命を得るために「自分に何ができるか」ということを考えていました。それは「富や功績があり、その上何をすれば」という「人間にできること」の世界でした。イエスが「善い」という言葉を退けたのも「自分の善い生活」を自負したこの人に、それが本当に頼りになるものではない、と気づかせるためだったのかもしれません。この人に必要だったのは、神に信頼し、兄弟の必要に心を開くことだったのです。&lt;br /&gt;　ザアカイの場合は、罪びとの自分を愛してくださるこの神の救いをイエスとの出会いによって知りました。だから、感謝と喜びのうちに財産を手放す決意をしたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (5)　ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)と胸を張ります。イエスはご自分に従う者の受ける報いを約束しますが、「しかし、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(31節)とも言います。ここでもほんとうは人間の功績の問題ではないのです。神はすべての人を愛し、救ってくださる方。だから、誰が一番ということではないのだ、ということになります。&lt;br /&gt;　ところで29-30節で、捨てるものの中にあって、「今この世で」受けるものにないのは「父」だけです。これは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;本当の父は、天の父である&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」ということではないでしょうか。&lt;br /&gt;　「捨てることによって、受ける」ということは言葉で説明できることではないでしょう。むしろわたしたちが実際に、福音のために何かを捨てたという経験があれば、そこでもっと豊かなものを受けたという体験もあるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　福音は自分を誇ったり、自分を責めたりするためにあるのではありません。わたしたちをより豊かな生き方に招くためのものです。わたしたちが本当に頼りにしているものは何でしょうか？　今のわたしにとって、イエスに従うとはどういうことなのでしょうか？　 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

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<dc:date>2009-10-02T17:08:43+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b98e.html">
<title>「聖書の集い」秋の一日セミナーのお知らせ</title>
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<description>「聖書の集い」は、小さなグループで一緒に福音書を読み、ともに祈る「バイブル･シェ...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt; TEXT-INDENT: 12pt; mso-char-indent-count: 1.0&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;MS UI Gothic&amp;quot;&quot;&gt;「聖書の集い」は、小さなグループで一緒に福音書を読み、ともに祈る「バイブル･シェアリング&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(聖書の分かち合い)」の一つの方法です。皆様ご存じでしょうが、「福音のヒント」はもともと、この「聖書の集い」で使うために作られています。「聖書の集い」について学ぶセミナーを毎年春と秋に行なっていますので、どうかご参加ください。くわしくは&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/diocese/oshirase/090929_seminer.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;こちら&lt;/a&gt;をごらんください。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

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<dc:date>2009-09-29T16:46:15+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/272009104102-16.html">
<title>年間第27主日　(2009/10/4　マルコ10章2-16節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」 ダウンロードができます...</description>
<content:encoded>&lt;table id=&quot;AutoNumber1&quot; bordercolor=&quot;#111111&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; width=&quot;400&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;BORDER-COLLAPSE: collapse&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;406&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;教会暦と聖書の流れ&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text1004.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1004.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint1004.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　マルコ福音書では、2回目の受難予告(9章31節)の後に、イエスのさまざまな行動や言葉が伝えられています。先週の箇所(9章38-50節)に続くきょうの箇所では、当時、社会的な立場・評価の低かった女性と子どもに対するイエスの態度が示されています。ここには、イエスがいのちがけで伝えようとした神(アッバ)の心がよく表れていると言えるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=207,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/09/25/1008.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;1004&quot; height=&quot;69&quot; alt=&quot;1008&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/09/25/1008.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　(1)　イエスの時代の「離縁」の問題と現代の「離婚」の問題は同じではありません。圧倒的な男性優位の社会でしたから妻の側からの離婚の申し出や協議離婚などありえず、「離縁」といえばそれは一方的に「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;夫が妻を追い出すこと&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」だったのです。&lt;br /&gt;　この｢離縁｣について、申命記にはこう規定されていました。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)。この律法は「離縁」のために2つの条件をつけています。1つは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;何か恥ずべきことを見いだし&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」です。夫が妻を離縁するためには、妻の側に明らかな落ち度がなければならないのです。もう1つは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;離縁状を書いて彼女の手に渡し&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」で、これは追い出された女性に再婚の可能性を保証することでした。ただ家を追い出されただけでは、前の夫との関係が切れていないので、再婚できません。男性優位の社会の中で女性が一人で生きていくのは、非常に困難なことでした。そこで、追い出される女性にせめて再婚の可能性を保証することが求められたのです。これは紀元前のイスラエル社会の中では、女性の立場を少しでも守ろうとしている規定だと言えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　ところで、イエスの時代、律法学者の中にヒレル派とシャンマイ派という有力な2つの派があったことが知られています。この箇所についての解釈はこの2派で分かれていました。シャンマイ派は「何か恥ずべきこと」を妻の側の異性関係の問題と解釈したのに対して、ヒレル派は「何か」と「恥ずべきこと」を分けて読み、この「何か」にはもっといろいろなことが含まれるとしました。有名な例に「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;夫の食べ物を過って焦がしてしまう&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」というのがあります。つまり、妻のどんな小さな落ち度でも、夫が気に入らないとなれば、離縁する正当な理由になったのです。一般にこのヒレル派の解釈が通用していました。だから、きょうの箇所でイエスの対話の相手も「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と言い、「何か恥ずべきこと」という条件は無視しています。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;離縁状さえ書けば、妻を離縁してよい&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」これが当時の一般的な考えでした。律法学者は皆、男性でした。何百年かの間に、この律法は男性に都合のいいように解釈されていったのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　イエスは当時の社会の中で、夫に追い出され、路頭に迷う多くの女性たちを見ていたのでしょう。断固として離縁に反対します。神の心は、夫が妻を離縁することを許すことではない、とイエスは主張します。そして、モーセの時代よりもさかのぼり、人間の創造の物語について語ります。「神は人を男と女とにお造りになった」(6節)は創世記1章27節の引用です。神にかたどって創造された男女が神の前に対等であることを語る箇所です。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(7-8節)は創世記2章24節の引用です。そして結論として、イエスはこう言います。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(9節)。&lt;br /&gt;　妻とは何か？　それは神が与えてくださったかけがえのないパートナーではないか。妻を自分の都合がよければ家に置いておき、都合が悪くなれば追い出せるようなものと考えるのはおかしいではないか･･･ということでしょう。イエスは律法の規定や結婚という制度を守ろうとしているのではなく、その中に生き、苦しんでいる一人ひとりの人間(ここでは弱い立場にいた当時の女性たち)を守ろうとしているのではないでしょうか。このように見るとイエスの言葉は「新しい律法」ではなく、まさに「福音(よい知らせ)」なのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　11-12節は一般的に離婚を禁じる言葉ですが、ここには｢妻を離縁して他の女を妻にする者｣(つまり男性)だけでなく「夫を離縁して他の男を夫にする者」(女性)のことが書かれています。これは前に述べたように、イエスの生きていたユダヤ社会ではありえないことでした。しかし、初代教会が地中海沿岸に広がる中では、このような地域もあったと考えられます。こう考えると、これはイエスご自身の言葉ではなく、初代教会の人々がイエスの言葉を受け取って、それを厳格に守ろうとする中で、付加された言葉のようです。&lt;br /&gt;　初代教会の人々は、イエスの言葉を「新しい掟」として受け取りました。キリスト教は結婚の絆を非常に重要視し、神聖なものと考えるようになりました。それは確かに古代社会一般の中で女性の立場を守る役割を果たしたと言えるでしょう。しかし、掟には危険があります。「掟さえ守ればいい＝離婚さえしなければいい」となってしまう危険です。本来のイエスの言葉の意味は「離婚してはいけない」という掟ではなく、結婚とは、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;互いに相手を神が結び合わせてくださったかけがえのない相手として大切にする&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことではないか、ということだったのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　イエスの時代のユダヤでは子どもは「無能力者」の代表でした。人間として価値を認められるのは、律法を学び守ることであり、この基準からすれば、無知で無力な子どもは無価値であると見なされていました。イエスの弟子たちでさえ子どもたちを追い払おうとしたのは、そういう社会だったからです。イエスは違います。14節「神の国はこのような者たちのものである･･･」。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;アッバ(父)である神は人の能力や功績にかかわらず、すべての人を愛し、それゆえ小さく無力な者に目を注いでくださる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。人は誰でもその神の愛を恵みとして受け入れ、信頼をもって自分をゆだねていくのが本来のあり方ではないか！　イエスはわたしたちの人に対する見方に挑戦してきます。「自分にとって都合がいいかどうか、どれだけ役に立つか」という見方ではなく、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;目の前の人を神が出会わせてくださった人、同じ神の子ども・自分の兄弟姉妹として見る&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;べきではないか、と。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2009年（主日B年）</dc:subject>

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<dc:date>2009-09-25T17:55:58+09:00</dc:date>
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<title>年間第26主日 (2009/9/27 マルコ9章38-43,45,47-48節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」 ダウンロードができます...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text0927.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint0927.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint0927.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　先週読まれたマルコ9章30-37節で、イエスは2回目の受難予告をし、ご自分の十字架の道に弟子たちを招きました。先週の箇所では「仕える者になる」「子どもの一人を受け入れる」ということが言われていましたが、それに続くきょうの箇所でも、イエスに従う弟子たちの生き方とはどういうものかが示されると考えたらよいでしょう。つまり、ここには、弟子たちの生き方についての教えだけでなく、イエスご自身の十字架の道がどのようなものであるかということも示されていると言えそうです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=228,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/09/18/1001.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0927&quot; height=&quot;131&quot; alt=&quot;1001&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/09/18/1001.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　 (1)　「ヨハネ」はもちろん、ヤコブの兄弟である弟子のヨハネです。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)。イエスの名を使って悪霊を追い出す、しかし、自分たちとは歩みを共にしない、これはイエスの地上での活動の時代よりも、後の教会の時代になってからのほうがありそうな問題です。&lt;br /&gt;　イエスは&lt;strong&gt;&lt;u&gt;弟子たちの狭いグループ意識を批判&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;します。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」という言葉はイエスの非常に広い、開かれた心を表しています。これは、イエスが十字架に向かう中で、敵意や憎しみを受け止め、すべての人を愛し続けた姿とつながります。ルカ9章50節にも同様の言葉があります。&lt;br /&gt;　一方、マタイ12章30節とルカ11章23節には、まるで正反対のような、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(マタイ)という言葉もあります。これらの箇所は「悪霊」につくか「神の霊」につくか、の二者択一を迫る文脈なので、厳しい言葉になっているようです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　マルコ9章41節「キリストの弟子だという理由で、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;あなたがた&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」という言葉も、狭いグループ意識に凝り固まらないイエスの心を示しています。&lt;br /&gt;　これとよく似た言葉をマタイは違う文脈の中で伝えています。「わたしの弟子だという理由で、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;この小さな者の一人&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10章42節)。マタイのほうは、弟子たちを派遣するにあたって弟子たちが迫害を受けることを予告する、という文脈の中でのことですから、マタイの「小さな者」は迫害されているキリスト者のことだと言えます。このマルコの箇所の「あなたがた」にも「圧迫され、苦しみの中にあるキリスト者であるあなたがた」というイメージがあるのかもしれません。なぜなら、続く42節には「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしを信じるこれらの小さな者&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という言葉があるからです。だとすれば、41節と42節はどちらも苦しむ人々への態度のこととして、なんらかのつながりがあると考えることもできるでしょう。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　しかし、きょうの箇所全体を一つの教えとして考えることは難しいようです。37節の「子ども」(先週の福音)や41節の「キリストの弟子」と42節の「小さな者」はイメージとしてつながっています。42節の「つまずかせる」と43、45、47節の「つまずかせる」は言葉の上でつながっています。しかし、それぞれの文が内容的にも関連があるとは考えられません。さらに、きょうの箇所の後、50節までの箇所でも「地獄」「火」「塩」という言葉でつながっているだけで、内容的なつながりは見いだすことができません。&lt;br /&gt;　どうしてこのようなことがあるのでしょうか？　イエスの言葉は最初から文字に書きとめられたのではなく、口伝えで語り継がれていきました。人々の記憶に頼っていたので、このように、言葉やイメージ、あるいは似ている文章構造によって短いイエスの言葉が結び合わされ、記憶しやすい形で伝えられていったのだと考えられるのです。もちろん、内容的にまったく無関係な言葉と考えることはできません。これらの言葉全体は、イエスの弟子にふさわしい生き方を指し示す言葉として大切に伝えられていったのでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (4)　「つまずかせる」は本来、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人の歩く道に罠を仕掛ける、道に障害物を置く&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という意味です。「罪に誘う、神への道から引き離す」という意味に受け取ればよいでしょう。ただし、42節の「つまずかせる者は･･･」には、もっと一般的に「小さな者を軽んじ、小さな者に悪いことをしないように」という警告の言葉だと受け取ったほうがよいでしょう。イエスの目はいつも「小さな者」に注がれていました。同じように「小さな者」を大切にすることが弟子たちに求められるのです。 &lt;br /&gt;　43節以降の「手があなたをつまずかせる」「片方の足が･･･」「片方の目が･･･」は非常に強い言い方です。実際に手や足や目が人に罪を犯させるのではありませんし、もしそうだとしても手や足や目を取り去ることは考えられません。これは明らかに誇張された表現で、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;「自分をつまずかせるもの」つまり「自分を神から引き離し、罪に誘うもの」を一切捨て去るように&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;という強い警告です。「地獄」と「命・神の国」の対比も警告を強めるためですし、同じような警告が3度繰り返されるのも、この警告の厳しさをより強めています。&lt;br /&gt;　ところで、新共同訳聖書のこの箇所を見ると、44、46節は省かれていて、そこに短剣のような記号「†」が付けられています。これは新共同訳がもとにしたギリシア語聖書(底本)で省かれている箇所の印です。写本によってはこの2箇所には「地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない」という48節と同じ言葉があるのですが、現代の学者は本来のマルコ福音書になかったと考えています。写本が書き写されていく中で、3つの警告の形を統一するために付け加えられていったようです(なお、この言葉はイザヤ66章24節の引用です)。とにかくここで、わたしたちに対して、罪から絶縁するという厳しさが求められていることは確かです。ただし、それは、日常の小さな罪から離れるということよりも、&lt;u&gt;&lt;strong&gt;神と人への愛からわたしたちを引き離す決定的な罪の誘惑(＝つまずき)&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;のことと考えてもよいのではないでしょうか？　もし、43節以下が42節と内容的なつながりがあるとするならば、「小さな者を軽視し、小さな者の歩む道を邪魔する」という心のあり方こそが、もっとも重大な罪の問題だということになるからです。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


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<dc:date>2009-09-18T17:23:01+09:00</dc:date>
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<title>年間第25主日　(2009/9/20　マルコ9章30-37節)</title>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/text0920.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint0920.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2009/hint0920.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　先週の箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所(マルコ8章27-35節)でしたが、きょうは少し飛んで、2回目の受難予告と言われる場面です。マルコ福音書の3回の受難予告では、いつも同じパターンがあります。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; (a) イエスはご自分の死と復活を弟子たちに予告する。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; (b) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれなことを考えている。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; (c) イエスはその弟子たちにご自分の受難の道の意味を語り、弟子たちを同じ道に招く。&lt;br /&gt;　この2回目の受難予告でも同じパターンが見られます。 &lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=184,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/09/11/0924.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0920&quot; height=&quot;61&quot; alt=&quot;0924&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/09/11/0924.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　　 (1)　弟子たちは「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合って」いました。「何を議論 していたか」と問われても彼らは「黙って」います。それがイエスの考えや生き方と合わないことを知っていたからです。情けない弟子たちの姿です。この弟子たちに向かってイエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)と言われます。これは3回目の受難予告の後の言葉とよく似ています。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(マルコ10章43-45節)。9章35節の言葉も一般的な教えというより、イエスの受難の道に弟子たちを招く言葉なのです。&lt;br /&gt;　「人よりも先になりたい、上になりたい、偉くなりたい」という思いから自由になることは難しいことです。弟子たちは、実際にイエスの受難と死の姿に接することによって、そこから解放されていきました。わたしたちはどうしたら解放されるのでしょうか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　ここまでの話と37節の子どもについてのイエスの言葉「子供の一人を受け入れる者は･･･」はうまくつながらないと感じられるかもしれません。マタイやルカもそのように感じたようです。平行箇所(同じような話を伝える箇所)で、マタイ18章4節では「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という言葉が加えられていますし、ルカ9章48節では「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という言葉が加えられています。もしかしたら、マルコ福音書は「子どものようになること(＝子どもであることを受け入れること)」と「子どもを受け入れること」を区別していないのかもしれません。&lt;br /&gt;　マルコ福音書では、再来週の年間第27主日に読まれる10章13-16節にも子どもが登場します。そこではこう言われています。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。子どもに関するイエスの言葉はいろいろな形で伝えられていったようです。マルコはたまたまその一つをきょうの箇所で伝えているという見方もできるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (3)　だとしたら、36-37節は前の部分と切り離して受け取ることもできるでしょう。「子どもを受け入れる」とは本来どういうことでしょうか？　これと似ている表現は、福音書の次のような箇所にも見られます。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のである。･･･はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;この小さな者&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10章40,42節)。ここでは、迫害を受けているイエスの弟子に対する態度のことが問われているようです。&lt;br /&gt;　「わたしの兄弟である&lt;strong&gt;&lt;u&gt;この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;なのである」(マタイ25章40節)。ここでは「飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢にいる人」が「最も小さい者」と呼ばれています。　イエスの時代、人間は律法という基準でその価値をはかられていました。当時の社会では、子どもは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;無能力者&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」の代表で、子どもであること自体には価値がないと考えられていました。一人前の人間は律法を学び、律法を忠実に守る人間だ、という考えで人間を評価すれば、子どもであるということは、欠陥でしかなかったのです。迫害されている弟子や助けを必要としている小さな人々と「子ども」のイメージはつながっています。この人々を大切にすることこそが、イエスと神を大切にすることだということになるのでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　 (4)　現代の子どもたちはイエスの時代の子どもたちとは違って、律法の基準ではかられているわけではありません。しかし、｢どれだけ役に立つか｣という経済的基準ではかられている面はあるのではないでしょうか。「少子化」の問題が叫ばれ、子どもの数がもっと多いほうがよいと言われます。しかしそれは、社会の安定のため、今の大人のために役に立つものとして子どもの数を必要としているに過ぎないのではないでしょうか？　大人の都合(役に立つか、立たないか？)で子どもを見る見方は、極端な場合、子どもたちを欲望の道具にしたり、犯罪や虐待の対象にしてしまうことだってありうるのです。&lt;br /&gt;　子どもに対するイエスの見方は、当時の社会の一般的な見方とも現代の産業社会の見方とも違っていました。イエスは人間を律法の基準や経済的価値で見ることをせず、すべての人を神の子として見ました。父である神はすべての人を愛し、特に小さい者に目を注がれる方です。そこで、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;子どもの小ささと無力さ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、そしてその&lt;strong&gt;&lt;u&gt;子どもが示す「絶対的な信頼」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;(子どものように神の国を受け入れること)は、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神の前で、だれもが本来そうあるべき姿&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;(ある意味での理想・模範)だということになります。&lt;br /&gt;　わたしたちはどうしたら、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;自分自身の小ささや無力さを受け入れる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことができるのでしょうか？　また、わたしたちが&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスの眼差しをもって子どもを受け入れる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;とは本当にどういうことなのでしょうか？ &lt;/p&gt;</content:encoded>


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