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<title>福音のヒント</title>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/15_2008713_1312_297a.html">
<title>年間第15主日 (2008/7/13 マタイ13章1-23節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」ダウンロードができます ...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0713.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0713.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0713.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　先週の福音の箇所はマタイ11章の結びでした。マタイ12章は主日のミサの朗読配分では省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスの活動と、それに対するさまざまな反応が伝えられています。イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(神の国)は力強く成長している、ということを語るのがきょうの13章のたとえ話集だと言えるかもしれません。　&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=239,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/07/03/0710.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0710&quot; height=&quot;79&quot; alt=&quot;0710&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/07/03/0710.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　 　(1) 人がたとえ話を用いて話すのは、ふつうは話を理解しやすくするためでしょう。しかし、イザヤ6章9-10節を引用しながらたとえで語る理由を述べるマタイ13章11-17節は、イエスのたとえがそれだけでは理解できず、その意味を理解するには特別な説明が必要であるということを前提にしているようです。そんなことがありえるのでしょうか。ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)という学者によれば、「たとえ」の元にあるアラム語の「マトラー」には「たとえ」と同時に「謎」の意味もあり、11-15節のイエスの言葉は本来、イエスの「たとえ話」についての言葉ではなく、「イエスの教え全体が受け入れない人にとって謎になってしまう」ということを表す言葉だったようです。なお、今回の「福音のヒント」はエレミアスの『イエスの譬え』(新教出版社)を参考にして、話を進めていきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　イエスのたとえ話についてのエレミアスの考えはおおよそ次のようなことです。 &lt;br /&gt;A. イエスのたとえ話は本来&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスが語った状況の中では聞いている人に良く分かる話&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;だった。しかし、状況から切り離されて「たとえ話」だけが伝えられると、本来の意味が分かりにくくなってしまった。 &lt;br /&gt;B. 本来の状況ではイエスのたとえ話のほとんどすべては「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;福音の弁明&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」であった。つまり、イエスの言動に対して疑問や批判が投げかけられたときに、イエスがご自分のメッセージと行動を説明するためにたとえ話を用いた。 &lt;br /&gt;C. しかし、初代教会の中で、イエスのたとえ話は弟子たちへの教訓として受け取られるようになった。そのため、批判者だったはずのたとえ話の本来の聴衆が、一般的な群集や弟子たちに変えられてしまった。それはキリスト者たちが&lt;strong&gt;&lt;u&gt;いつもイエスのことばを今の自分たちにとって指針となる言葉として受け取ろうとした&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ためである。そして、たとえ話には&lt;strong&gt;&lt;u&gt;新たな状況と新たな解釈&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;が付け加えられるようになっていった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　ルカ15章1-7節にある「見失った羊」のたとえは、イエスが罪びとと一緒に食事をしたことを非難されたとき、その批判に答えるためにイエスが話したたとえ話です(上のBの典型、Cの例外ということになります)。このたとえ話のメッセージは明白です。「神はこの迷子の1匹を探し続ける羊飼いのような方だ。だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ」。しかし、同じたとえ話を伝えるマタイ18章10-14節は「小さな者を軽んじないように」という弟子たちに向けての教訓としてこのたとえ話を伝えています(これがCの典型です)。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　エレミアスのように考えるとすると、マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章に共通して伝えられている「種まきのたとえ話の説明」(マタイでは13章19-23節)は初代教会の人々が付け加えた部分だと考えることもできるでしょう。そこで、3-9節のたとえ話だけを考えてみます。　&lt;br /&gt;　まず不思議に思うのは、この農夫のやり方です。日本の農民なら決してこんな種の蒔き方をしないでしょう。畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから、種が無駄にならないように、注意深く蒔くに決まっているのです。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通のやり方でしょう。&lt;br /&gt;　パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題はないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。確かにこのような種まきは一見、無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。&lt;br /&gt;　だとすると、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種蒔く人&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のほうにあると言えるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　さて、たとえ話を福音書の文脈から切り離して、本来の状況を考えることはできるでしょうか。ここから先は想像の域を出ないかもしれません。しかし、たとえばイエスの活動の仕方に疑問が呈されたときのことだと考えてみてはどうでしょうか。「神の国と大げさなことを言っても、あなたの周りに集まってきたのは、無学で貧しい人ばかりではないか。病人や障害者ばかりを相手にしていても無駄ではないか。なぜあなたは、もっと効率的な宣教方法を取らないのか」このような疑問は、ファリサイ派のような敵対者からというよりも、むしろイエスの弟子たちからの疑問だと言えるでしょう。もしも、そういう状況の中でこのたとえ話が語られたとするならば、このたとえ話のメッセージは次のようになるでしょう。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;農夫を見なさい、彼らのやり方は一見無駄に見える。しかし、そのような仕方でこそ、大きな実りがもたらされるのだ。わたしのやり方も同じことだ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」&lt;br /&gt;　この「種蒔く人」のイメージは、人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けるイエスご自身の姿とも重なってきます。&lt;br /&gt;　もちろん、これまで見てきたエレミアスのような読み方がすべてではなく、もっと素直に「たとえ話の説明」を受け取ってもよいのです。問題は、わたしたちが、わたしたちの置かれた状況の中でこのたとえ話をどう受け止めるかなのです。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

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<title>年間第14主日 (2008/7/6 マタイ11章25-30節)</title>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0706.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0706.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0706.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　　マタイ11章では洗礼者ヨハネやイエスを受け入れなかった人々のことが語られています。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人(つみびと)の仲間だ』と言う」(18-19節)。確かに当時、イエスを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいたのです。きょうの箇所は、そのような状況の中でのイエスの祈りと、人々に対する大きな招きとして読むことができるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=481,height=397,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/06/27/0703.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0703&quot; height=&quot;82&quot; alt=&quot;0703&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/06/27/0703.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　(1)　25-27節はルカ福音書にも並行する箇所があります(ルカ10章21-22節)。72人を派遣した後の箇所ですが、そこでもイエスのメッセージを受け入れず、悔い改めない町の話に続いています。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスのメッセージは必ずしもすべての人に受け入れられたのではありません&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスを受け入れない人、「幼子のような者」がイエスを受け入れる人であると言われています。当時の知恵や賢さは律法に関する知識の意味でした。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたのが現実だったのです。イエスの活動は人間的に見ればこの点で成功しなかったという見方もできるかもしれません。しかし、イエスはこえのことの中に神の計画の実現を見ました。&lt;br /&gt;　「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;天地の主である父よ、･･･&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」これはイエスの祈りです。&lt;u&gt;&lt;strong&gt;人間的には失敗と見えるような現実の中にイエスは神の意思の実現を見ます&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;。それは人間的な見方ではなく、祈りの中で見いだした神の眼差しによる見方だと言ったらよいでしょう。27節の「子が示そうと思う者」という言葉は、イエスご自身の思いも何より「幼子のような者」に向けられていたということを表しているのではないでしょうか。27節は祈りの言葉そのものというよりも、祈りの中でイエスが見いだした確信だと言えるでしょう。そして、28-30節はこの祈りとその中で得た確信に基づくイエスの人々への呼びかけなのです。&lt;br /&gt;　「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉。現代に生きるわたしたちの多くは、どれほどこの言葉を必要としていることでしょうか。現代人の多くは疲れています。肉体を休ませたい、という以上に、心から「ほっ」としたいのです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　「柔和」「謙遜」という言葉については少していねいに見ておきましょう。「柔和」はギリシア語で「プラユスprays」です。この言葉は、マタイ福音書の中で3回使われています。最初は5章5節、｢&lt;strong&gt;&lt;u&gt;柔和な&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;人々は、幸いである、／その人たちは地を受け継ぐ」ですが、この言葉の背景には詩編37編11節の「&lt;u&gt;&lt;strong&gt;貧しい人&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;は地を継ぎ」があると考えられています(この「貧しい人」と訳されているヘブライ語の「アナウ」の古代ギリシア語訳(七十人訳)が「プラユス」です)。もう一つの箇所はマタイ21章5節、「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;柔和な&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;(プラユス)方で、ろばに乗り」という箇所です。これはゼカリヤ9章9節の引用です。このゼカリヤ書の箇所を新共同訳は「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;高ぶることなく&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、ろばに乗って来る」と訳しますが、この「高ぶることなく」は「アニ(アナウと元は同じ)」なのです。「プラユス」というギリシア語は確かに「柔和な」という意味の言葉ですが、その背景にはヘブライ語の「アナウ」があります。この「アナウ」ということばはもともと&lt;strong&gt;&lt;u&gt;身をかがめ小さくなっている人の様子&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;を表すそうです。経済的に圧迫されていたり、あるいは他から虐げられて苦しんでいる人の意味で「貧しい人」と訳されることが多いのです(詩編37編参照)が、みずから小さくなっている人という意味では「柔和な人、高ぶらない人」とも訳されます。この箇所の「プラユス」の背景にも「アナウ」というヘブライ語的な表現があるとすれば、もっとストレートにイエスが｢&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしは貧しい&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」と言っていると受け取ることができるでしょう。「&lt;u&gt;&lt;strong&gt;謙遜&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;」のほうは直訳すれば「&lt;u&gt;&lt;strong&gt;心において&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;(テー・カルディアte kardia&lt;strong&gt;)&lt;u&gt;身分が低い人(タペイノスtapeinos)」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。この「心において」はマタイ的な表現のようです。たとえば、ルカ6章20節で「貧しい人」というところをマタイ5章3節では「心の貧しい人(霊において貧しい人＝直訳)」と言い、ルカ6章21節で「飢えている」というところをマタイ5章6節では「義に飢え渇く人」と言い換えています。もし本来の形が「タペイノス」だけだったとするならば、これもストレートに「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;身分が低い&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という意味なのです。　&lt;br /&gt;　「柔和・謙遜」というと心の状態だけを考えがちですが、イエスの言葉は「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしは実際に貧しく、身分が低い&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」というニュアンスをもあわせ持つ言葉だったのではないでしょうか。そう考えるとイエスの招きをもっと身近に感じることができるかもしれません。イエス自身が貧しく・身分が低いものである(「ラビ＝律法教師」としての特別な資格や地位がない)から、貧しく身分の低い人は安心してイエスに近づくことができるのです。「わたしに学びなさい」は「わたしの弟子になりなさい」とも訳せるような言葉です。当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいました。そういうラビの弟子になるのは難しいことでしたが、イエスの弟子になるのに何の資格も学力も授業料もいらないのです！&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　「軛(くびき)」は荷車や農具を引かせるために、2頭の牛(またはロバ)を横につなぐものです。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。イエスの荷が「十字架」であるならば、とても軽いとは思えません。それなのになぜ軽いと言われるのでしょうか。この「二頭立て」のイメージが役に立つかもしれません。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしたちの軛・荷をイエスが共に担ってくださるから「軽い」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のではないでしょうか。マタイ23章4節で、イエスはファリサイ派の人と律法学者を批判して、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と言います。イエスの生き方はその正反対でした。イエスは、わたしたちに向かって、「わたしがあなたの重荷を共に担おう」と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。そのイエスの招きを今のわたしたちは感じることができるでしょうか。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


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<title>聖ペトロ聖パウロ使徒 (2008/6/29 マタイ16章13-19節)</title>
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<content:encoded>&lt;table id=&quot;AutoNumber1&quot; bordercolor=&quot;#111111&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; width=&quot;400&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;BORDER-COLLAPSE: collapse&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;406&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;教会暦と聖書の流れ&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0629.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0629.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0629.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　初代教会の中心的な指導者であるこの二人を一緒に祝う祭日は毎年6月29日ですが、主日にあたった年には、主日のミサでもこの祭日を祝います。福音の箇所は、マタイ福音書が継続して読まれている今年(A年)の、年間第21主日(8月24日)と同じ箇所です。この箇所では、これまでずっとイエスに従ってきた弟子たちを代表して、シモン・ペトロがイエスに対する信仰をはっきりと宣言します。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=222,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/06/20/0629.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0629&quot; height=&quot;135&quot; alt=&quot;0629&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/06/20/0629.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;　　(1)　「フィリポ・カイサリア」はガリラヤ湖に流れ込むダン川の源流の地(ガリラヤ湖から北へ約40キロメートル)です。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)の町」を意味しますが、地中海東岸のカイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」と呼ばれました。ここには異教の神々の神殿がありました。マタイはこの地でのペトロの信仰告白を、自分たちの教会がユダヤ教やローマの宗教などに取り囲まれている中で、キリストへの信仰を宣言していることと重ね合わせているのかもしれません。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　14節ではイエスについての人々のうわさが伝えられています。「洗礼者ヨハネ」はすでに処刑されていました(マタイ14章)。「エリヤ」は紀元前9世紀の北イスラエルの預言者ですが、神の決定的な裁きの前に神から遣わされると考えられていた人物です(マラキ3章23節参照)。「エレミヤ」は紀元前7～6世紀の南ユダの預言者ですが、同じように世の終わりに再び現れると考えられていたようです。&lt;br /&gt;　「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いは、他人の考えではなく、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;実際にイエスに出会い、イエスのそばにいて、イエスのことばと行動に触れてきたあなたがたはどう思うのか？&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;　ということでしょう。「教会で教えられたから」とか「キリスト教の教えの本で読んだから」というレベルではなく、わたしたちもそれぞれ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われることがあるのではないでしょうか。わたしたちはイエスとどのように出会い、わたし自身の言葉として何と答えることができるでしょうか。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　ペトロの答えは「あなたはメシア、生ける神の子です」というものでした。「メシア」は、ギリシア語原文では「クリストス(＝キリスト)」です。新共同訳聖書は「クリストス」がイエスを指す固有名詞のように使われている場合は「キリスト」、称号として使われている場合は「メシア」と訳し分けています。本来の意味は「油注がれた者」ですが、新約聖書では神が決定的に遣わされる救い主を指す言葉です。また、「神は生きておられる」ということは旧約聖書で繰り返し強調されていたことでした。&lt;br /&gt;　ペトロのこの言葉はもちろん正解です。しかし、マルコ8章30節(平行箇所)ではイエスは「ご自分のことを誰にも話さないように」と命じています。マルコは、この時点でのペトロの理解は不十分で、受難と死を通して「イエスがキリストである」ということの本当の意味が理解される、と言いたいようです。また、「イエスは神の子キリストです」と口で言うだけではなく、そのイエスに希望と信頼を置き、イエスとともに歩み続けることこそが大切だとも言えるでしょう。その意味でもペトロのこの信仰告白は不十分だったと言わざるをえないかもしれません。 　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　一方、マタイ福音書ではイエスへの信仰を告白したペトロが祝福されています。17節からの言葉はマタイ福音書だけが伝えるものですが、これらの言葉は、アラム語(イエスの話していた言語)の伝承にさかのぼると言われます。「バルヨナ」はアラム語で「ヨナの子」の意味です。「人間」と訳されたことばは直訳では「血肉」で、これもアラム語的な表現です。18節の「ペトロ」はアラム語の「ケファ」(「岩」の意味)をギリシア語に訳した名前です。ただし、これらの言葉すべてをイエスご自身のものとは言い切れない面もあります。「教会」という言葉は福音書にはほとんど出てきません(この箇所とマタイ18章だけ)。これは復活後の状況の中での言葉ではないでしょうか。ただし「ケファ」という呼び名自体はイエスご自身が付けたものであり、イエスご自身がシモン・ペトロに土台としての役割を与えたということは確かだと言えるでしょう。&lt;br /&gt;　ここで「教会を建てる」というとき、建物のイメージがあります。続く「陰府の力」も直訳では「陰府の門」ですし、それとの関連で「鍵」という言葉も出てくるようです。死者が閉じ込められる場所が陰府で、その門を開けて死者を生き返らせることは神以外のだれにもできないと考えられていました。19節の「天の国の鍵」は天の国にも門があり鍵がある、というイメージでしょう(なお、鍵は複数形です)。ペトロの役割は、単なる門番ではなく、天の国の管理を任されるという大きな役割です。「つなぐ」「解く」という言葉には、ラビ(律法教師)としての判断・判決を表す表現が背景にあると考えられています。 　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　ところで、マタイ23章13節には、次のようなイエスの言葉があります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。教会に与えられた任務はその正反対で、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;いかにすべての人に対して天の国の門を開くか&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、ということです。&lt;br /&gt;　「天の国」はマタイ的な言い方で「神の国」と同じ意味です。イエスのメッセージの中心はこの神の国の到来でした。神の国とは、神の愛がすべてにおいてすべてとなった状態、人が神との親しいつながりを取り戻すこと、それゆえ人が神の(永遠の)いのちを生きる者となること。さまざまな表現ができますが、この神の国は、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスと共にもうすでに始まっている&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;という面と、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;まだ完全には実現していない&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;という面があります。&lt;br /&gt;　教会は天の国そのものではありません。しかし、この箇所では教会(ペトロ)に天の国の管理がゆだねられています。それは「権限」というより「使命」と言ったほうがよいでしょう。わたしたちの教会は本当に神の国の門を開き、人々をそこに招いているでしょうか。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

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<dc:date>2008-06-20T14:35:24+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/12_2008622_1026_01dc.html">
<title>年間第12主日 (2008/6/22 マタイ10章26-33節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」ダウンロードができます ...</description>
<content:encoded>&lt;table id=&quot;AutoNumber1&quot; bordercolor=&quot;#111111&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; width=&quot;400&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;BORDER-COLLAPSE: collapse&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;406&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;教会暦と聖書の流れ&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0622.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0622.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0622.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　先週に引き続き、12使徒を派遣するにあたってのイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10章14節)、むしろ、迫害を受けることが避けられない(10章17-23節)ことをイエスは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきかがきょうの箇所で語られるのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=388,height=197,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/06/13/0622.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0622&quot; height=&quot;50&quot; alt=&quot;0622&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/06/13/0622.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　　 (1)　きょうの箇所はルカ12章3-9節とよく似ていますが、ルカの箇所がファリサイ派の偽善に警戒せよ、という文脈の中に置かれているのに対し、マタイでは迫害を予告するという文脈の中で伝えられています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10章26節)は、マルコ4章22節にもよく似た言葉があります。短いイエスの言葉が伝えられていくうちに、次第に長くまとまった形になり、それをマタイやルカがそれぞれ違った文脈の中で、自分の福音書に取り入れている、と考えることもできるでしょう。だとすると、26-27節、28節、29-31節の3つの部分を無理に関連づけずに、本来はそれぞれが独立したイエスの言葉だと受け取ることもできることになります。共通するのは26節、28節、31節の「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;恐れるな&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という命令です(原文の語形は26節だけ違います)。「恐れるな」という言葉が、キーワードのようにこの3つの部分をつなぎ合わせていると考えることができるのです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　&lt;strong&gt;&lt;u&gt;「覆われているもの」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;「隠されているもの」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;とは何を指しているのでしょうか。本来イエスが語った状況の中では意味がはっきりしていたのでしょうが、今となってはその本来の状況は分かりません。マタイの文脈では、前の25節との関係を見ると「隠されているもの」は「彼らがイエスの弟子・僕(しもべ)であること」と言えるでしょうか。27節とのつながりでは「イエスの告げる天の国の福音」が「隠されているもの」だということになります。福音の言葉は、文脈によっていろいろな受け取り方ができることはよくあります。今のわたしたちの状況の中で、この言葉から思い浮ぶことはどんなことでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(28節)。日本語では「恐れ」と「畏れ」を書き分けますが、聖書では同じ言葉です。人間は神の前で自分の小ささ・至らなさを感じるとき、それを「畏敬の念」と言ったりしますが、これはもちろん神が恐ろしい方だという意味ではありません。出エジプト記にこういう話があります。「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。・・・『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。』&lt;strong&gt;&lt;u&gt;助産婦はいずれも神を畏れていたので&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1章15-17節)。ここで神を恐れる(畏れる)というのは、たとえそれが強大な権力者であっても&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神以外のものに対する恐怖に打ち勝つこと、そして神のみ旨と信じることを実行できる(魂に忠実に生きる)ようになること&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;でした。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　「雀」は小さな鳥の総称と考えられますが、このような小鳥は、重い皮膚病の人の清めの儀式に使われた(レビ記14章)ようですし、食用にもなったそうです。「アサリオン」はローマの小額貨幣で、今で言えば約50円相当です。「2羽の雀が1アサリオン」というのは1羽では売り物にならないほど価値が低い、ということです。この雀も神に守られているというのです。雀のたとえの中に入り込んでいる髪の毛のたとえも、神の細かい配慮を強調するものです。この2つのたとえを通して、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしたちに対する神のいつくしみは決してなくならない&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことが強調されます。 &lt;br /&gt;　32-33節は地上で弟子たちが受ける人間の裁きと、天上で神の前で受ける裁きがつながっていることを表しています。「イエスの仲間であると言う、イエスを知っている」とはどういうことでしょうか。マタイ7章21-23節、25章31-46節を見ると、ただ口先だけで「イエスを信じます」と言うことではなく、イエスの心に忠実に従って生きることだと言えるでしょう。ただしこの箇所は、警告だけでなく、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;どんな苦境の中でもわたしたちは決して孤立無援ではない&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;という力強い励ましとして受け取ることが大切でしょう。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　キリスト者に対する迫害と言っても、現代のわたしたちにはピンとこないかもしれません。今のわたしたちは何に「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;恐れ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」を感じるでしょうか。病気、失業、犯罪、暴力、人からの裏切りなど、わたしたちに恐れを引き起こさせるものはいろいろあります。「恐れ」というものは必ずしも悪いことだとはいえません。病気や犯罪から身を守るために役に立つこともあるのです。&lt;br /&gt;　恐れが問題になるのは、恐れのために、日々の生活と人生が振り回されて、本来やるべきことができなくなってしまうときです。「恐れるな」というイエスの言葉はそういう状況の中で受け取ればよいのではないでしょうか。マタイ10章23節では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とも言われます。イエスは闇雲に迫害に耐えろ、とはおっしゃいません。わたしたち一人一人に「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;本当になすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何か」と問いかけている&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のではないでしょうか。&lt;br /&gt;　「恐れ」の問題は他にもあります。戦争をひき起こそうとする人は、人々の恐怖心を煽(あお)ります。「何をされるか分からない。やられる前にやりかえさなければ」という思いは、人を簡単に戦争や暴力に走らせるものです。恐れが人の心から平安を奪い去り、富や権力、武力にしがみつくようにさせるのです。そういう状況の中で「恐れてはならない」は、冷静な心を持つように、という戒めにも聞こえます。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;「恐れ」に振り回されずに、今、本当に何が起こっているのか、自分にできることは何か、を見つめる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことが大切でしょう。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

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<dc:date>2008-06-13T16:41:41+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/11_2008615_9361_bd5c.html">
<title>年間第11主日 (2008/6/15 マタイ9章36節～10章8節)</title>
<link>http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/11_2008615_9361_bd5c.html</link>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0615.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0615.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0615.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　マタイ4章～9章では「天の国」について語り、多くの病人をいやすイエスの活動が伝えられてきました。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9章35節)は、そのまとめと言えます。きょうの箇所はその続きで、イエスがなさってきた活動をさらに広げていくために、ここで12人の弟子が選ばれ、派遣されることになります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=271,height=259,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/06/06/0615.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0615&quot; height=&quot;95&quot; alt=&quot;0615&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/06/06/0615.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　 　(1)　&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスは「飼い主のいない羊のような群衆」を「収穫」と呼びます&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。収穫には「鎌で刈り取り、踏みつぶされる」終末の裁きのイメージもありますが、ここでは天の国に招き入れられる救いのイメージです。「飼い主」の役割は、狼や盗人から羊を守り、群れを1つに集め、草のあるところに導くことでした。イエスの目の前の群衆は、無力で価値がないように見えるかもしれませんが、「飼い主」と「収穫のための働き手」がいれば、豊かないのちを得、大きな実りとなるはずなのです。&lt;br /&gt;　「収穫のために働き手を送ってくださるように」(9章38節)は多くの司祭が生まれることを願う召命のための祈りの中でよく使われる言葉です。しかし、これは決して「どこかからわたしたちのための働き手を送ってください」という祈りではありません。イエスは群集に向けてではなく、弟子たちに向かってこう願うように命じています。この願いはイエスの弟子の祈りであり、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしたちと一緒に働く人を与えてください&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という祈りなのです。自分たち以外の誰かが働き手になるのではなく、自分たち自身がイエスの弟子として招かれ、派遣されるにあたって、自分たちの数も力も足りないことを痛感しながらこう祈るのです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　「汚れた霊」はもちろん「悪霊」のことです。古代の人は、目に見えない大きな力を感じたとき、それを「霊」と呼びました。人を神と結びつけ、人と人とを結びつける力が「聖霊」であり、逆に&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人を神から引き離し、人と人との間を引き裂く力が「悪霊」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;だと考えればよいでしょう。古代には、悪霊の働きによって病気や障害が起こると考えられました。10章1節でも「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」と言われています。もちろん、現代のわたしたちは病気や障害をそのように考えませんが、今のわたしたちの社会の中でも「神と人、人と人の関係を破壊する大きな力」を感じることはないでしょうか。イエスが戦い、またイエスの弟子たちが戦うことを求められているのは、この力に対してなのです。なお「汚れた霊に対する権能」と言いますが、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスの悪霊との対決の仕方は、神への信頼と人への愛を貫き通し、人々の中にもこの信頼と愛を呼び覚ましていくという仕方&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;でした。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　「使徒」(ギリシア語で「アポストロスapostolos」)は「遣わされた者」という意味の言葉で、マタイ福音書ではこの箇所だけで使われています。「十二人」はイスラエルの十二部族の数から来ていて「新しい神の民の核になる人々」を表します(19章28節参照)。「十二使徒」という言い方は、イエスの復活後、教会の活動が始まってから定着したものかもしれません。もちろん、福音書の中でイエスご自身がこの人々を選んだことが伝えられていますが、十二使徒は昔のイエスの弟子たちというよりも、今の自分たちの教会を象徴的に表していると受け取ることも大切です。&lt;br /&gt;　マタイ福音書の十二使徒のリストは基本的にマルコ3章16-19節と同じですが、二人ずつセットになっていることと、マタイのところが「徴税人マタイ」となっているのが特徴です。「二人ずつ組にして遣わす」(マルコ6章7節)ということが背景にあるのかもしれません。ここで「徴税人マタイ」と言うのは、マタイ9章9節で徴税人の名前をマタイと紹介したからです。徴税人はローマ帝国に仕えることによって生きていた人です。一方、「熱心党のシモン」の熱心党(ゼロータイ)は極端な愛国主義者で、ローマ帝国に対する武力闘争も辞さない考えの人々でした。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;政治的・社会的にまったく立場の違う人がイエスの弟子の中にいる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことは面白いことです。わたしたちの教会もそうでしょう。よく似た人同士が集まっているのが教会ではありません。イエスという生きた中心のもとにさまざまなタイプの人が1つに集まるのが教会です。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　使徒たちの活動範囲は限定されています。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」15章24節では、イエスご自身が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われますから、イエスの目は、まず第一にユダヤ人同胞に向けられていたと言わざるをえません。この限定は、復活後の派遣(「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」28章19節)で取り払われますが、それ以前のイエスの言葉は異邦人を排除しているのでしょうか。むしろ、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;まず近くにいる人に目を向ける、&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;と考えれば分かりやすいかもしれません。「失われた羊」は群れから離れ、孤立してしまっている人と言ってもいいでしょう。わたしたちのごく身近にも「失われた羊」がいるのではないでしょうか。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　派遣された弟子たちがなすべきことは、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(10章7-8節)です。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスが行なっていたのとまったく同じことを弟子たちはしていく&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことになります。2000年後の日本に住むわたしたちが、イエスのしたことと同じことをしていくとはどういうことでしょうか。福音書に描かれた具体的な一つ一つの行為というよりも、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスが今のこの日本にいたら、何をなさるだろうか、どういう人に近づき、どう関わり、どんなメッセージを語るだろうか&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、と考えてみたらよいのではないでしょうか。わたしたちはそれを知ろうとして、一緒に聖書を読んでいるのです。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/10_200868_9913_6502.html">
<title>年間第10主日 (2008/6/8 マタイ9章9-13節)</title>
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<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」ダウンロードができます ...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0608.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0608.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0608.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　主日のミサの朗読配分は3年周期になっていますが、今年(A年)の年間主日では、マタイ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを少しずつたどっています。先週まで続いた長い山上の説教(5-7章)の後、マタイ8-9章では、病人をいやしたり、湖の嵐を沈めたりする、イエスのさまざまな活動の様子が伝えられています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=421,height=248,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/05/30/0608.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0608&quot; height=&quot;58&quot; alt=&quot;0608&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/05/30/0608.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　 　(1)　この話はマルコ2章13-17節を元にしていて、ルカ5章27-32節にも同様の話(平行箇所)がありますが、マルコやルカではこの徴税人の名前が「レビ」となっています。マタイ福音書では、10章2-4節にある12人の弟子のリストの中にも「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;徴税人マタイ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という名前があります。マタイ福音書はこの「マタイ」という名前に特別な思い入れがあったのでしょうか。伝統的には、この徴税人マタイが「マタイによる福音書」の著者マタイであったと考えられてきました。もちろん確かなことは分かりませんが、そう思って読むと、きょうの話は福音記者自身のイエスとの出会いの物語ということになります。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　収税所というのは、主な街道に設けられて、そこを通る人からローマ帝国の通行税を徴収する場でした。そこで収税業務を行っていた人が「徴税人」です。彼らはローマ帝国から給与を得ていたのではなく、収税所の権利を金で手に入れたユダヤ人であり、ローマ帝国の通行税に自分の手数料を上乗せして人々から徴収していました。一般的に、徴税人は不正な取立てをしていると考えられていました。しかし、徴税人が「罪びと」の代表のように言われる理由はこれだけではありません。神の国であるはずのイスラエルにローマ帝国が税を課すこと自体が神に反することであり、そのローマの徴税に加担していることそのものが罪深いことだと思われていたのです。彼らは、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;ユダヤ民族に対する裏切り者&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;として同胞から嫌悪されていました。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　福音書の中で「罪びと」という言葉が出てきたとき、それを今のわたしたちの社会の中の犯罪者のように考えないほうがよいでしょう。当時の善悪の基準は律法であり、律法に反すると思われるような職業の人には皆、罪びとのレッテルが貼られていたのです。貧しい人や病人も罪びとの部類に入れられていました。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;「あいつはダメなやつだ」「あんなやつはいないほうがいい」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;と人から思われている人、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;「自分は救われない人間だ」「自分なんか神から程遠い人間だ」&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;と自分でも思わざるをえない人、罪びととはそういう人のことだと言ってもいいでしょう。今で言えば、それはどういう人のことでしょうか。&lt;br /&gt;　このように考えると、「わたしに従ってきなさい」というイエスの呼びかけを聞くことが、マタイにとってどれほど大きな喜びであったかを感じるとることができるでしょう。「人々から嫌われ、罪びとのレッテルを貼られている、自分でもとうてい正しい人間だとは思えない。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;こんなわたしでも呼んでくださる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;！」イエスに呼ばれたことは、彼にとって重荷や負担ではなく、自分の存在に意味を見いだす大きな恵みの体験だったはずです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　マタイはイエスへの感謝の心からイエスを家での食事に招いたのでしょう。マタイが徴税人を辞めてイエスについていこうと思ったのであれば、この食事は昔の仲間と一緒にする最後の食事だったかもしれません。そこに大勢の「徴税人や罪びと」がやってきます。ここでいう「罪びと」も律法に反すると見られていた職業の人々だったようです。&lt;br /&gt;　一方、イエスを非難したファリサイ派は、イエス時代のユダヤ教の一派で、律法を細かく解釈し、厳格に守ろうとしていた人々でした。彼らからすれば「律法を学びもせず、守ることもしていない人」は皆、「罪びと」の部類に属しました。&lt;br /&gt;　「一緒に食事をする」ということは、ほとんどすべての民族・文化にとって、そこにいる人々の絆を生み出し、その絆を確かめ合うという重要な意味を持っています。ユダヤ人にとって一緒に食事をすることは、さらに特別な意味を持っていました。神とイスラエルの民の契約(シナイ契約)のとき、モーセとイスラエルの長老たちは「神を見て、食べ、また飲んだ」(出24章11節)と言われています。これが最高の救いの状態なのです。そして、地上で人間同士が共にする会食は、神のもとでの会食(宴)の先取りだと考えられました。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;地上で共に食事をする共同体は「神に救われる者の共同体」を表していた&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のです。だからファリサイ派のような熱心なユダヤ人は決して「罪びと」のレッテルを貼られた人とは食事をせず、イエスの行動につまずきます。一方の&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスは、だからこそ、罪びとと一緒に食事をした&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　イエスは「罪びと」を「病人」にたとえます。「罪びとは救われないダメな人間だ」と見るのではなく、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;罪びとこそ、救いといやしを必要としている人だ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」という見方です。13節の「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉はマルコやルカの並行箇所にはありません。これはホセア6章6節の言葉で、新共同訳ではこうなっています。&lt;br /&gt;　「わたしが喜ぶのは／愛であっていけにえではなく&lt;br /&gt;　 神を知ることであって／焼き尽くす献げ物ではない」&lt;br /&gt;　この「愛」はヘブライ語では「ヘセド」で、本来は「神への愛」を表していたのでしょう。マタイ福音書は七十人訳(古代ギリシア語訳)聖書を直接引用して「エレオスeleos(あわれみ、慈悲)」というギリシャ語を使っています。この場合は、もちろん「人へのあわれみ」の意味になります。「正しい人を招くためではなく、罪びとを招くため」というときの「正しい人」は、「自分は律法に忠実に生きていて、神の前に落ち度がない、当然救いにあずかれる人間だ」と自負している人、「罪びと」とは、神からも人からも断ち切られ、救いにあずかる資格はないと感じている人のことでしょう。&lt;br /&gt;　わたしたちは罪びとを招かれたこのイエスの招きを、自分に向けられた招きとして感じることができるでしょうか。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

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<dc:date>2008-05-30T16:54:06+09:00</dc:date>
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<title>年間第9主日 (2008/6/1 マタイ7章21-27節)</title>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0601.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0601.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0601.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　A年の年間第4～第9主日のミサの福音は、マタイ福音書5～7章の「山上の説教」が読まれることになっています。しかし残念ながら、四旬節・復活節と三位一体の主日・キリストの聖体の祭日を挟むため、ほとんどいつも、いくつかの年間主日は実際には祝われないことになります。きょうの箇所はその「山上の説教」の結びの箇所です。 &lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=225,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/05/23/0601.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0601&quot; height=&quot;75&quot; alt=&quot;0601&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/05/23/0601.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　 (1)　山上の説教は、「幸い、霊において貧しい人々」(マタイ5章3節。これは新共同訳ではなく直訳)という祝福の言葉に始まり、神の祝福・救い・ゆるしを受けた人が、どのように生きるべきかを教える、数多くのイエスの言葉を伝えています。本来は、新しく信者になった人々にキリスト者としての新しい生き方を指し示す言葉としてイエスのさまざまな教えが集められたもののようです。きょうの箇所はその結びにあたり、「行い、生き方」の大切さを強調する教えになっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　この箇所の直前、15節以下に「偽(にせ)預言者を警戒しなさい」という教えがあります。この偽預言者とは「羊の皮を身にまとって」いるが「その内側は、貪欲な狼」だと言われます。「羊の皮」とは外見がキリスト信者のように見える、という意味でしょうか。だとしたら、偽預言者は教会の外にいるのではなく、教会の中にいると警告していることになります。それをどうやって見分けるのか、「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。･･･すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」偽預言者か否(いな)かの判断基準は非常にはっきりしていて、「実」すなわち「行い」だというのです。&lt;br /&gt;　きょうの箇所(21-23節)は、内容的にこの「偽預言者についての警告」とつながっています。偽預言者は「主よ、主よ」と言い、「御名(みな)によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」人々でもあります。実際には、このような人々を偽預言者であると見分けるのは難しいかもしれません。しかし、とにかく、預言も奇跡もそれだけでは「良い実」ではないのです。「良い実」とはただ1つのこと、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしの天の父の御心(みこころ)を行う&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」ということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　「天の父の御心を行う」とは何のことでしょうか。マタイ25章34-40節に誤解の余地がないほど明快な答えがあります。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;からだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　山上の説教の中でも同じことが語られていると言えるでしょう。&lt;br /&gt;　「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。これこそ律法と預言者である。」(7章11-12節)。&lt;br /&gt;　「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(5章44-45節)&lt;br /&gt;　これらの箇所には、非常に明確に「父である神の御心とは何か」が示されています。しかし「神の御心がこれであるから、人間的に努力してこの御心を実行しなければならない」というだけではない面がここにはあります。むしろ、「神がその御心をもってわたしたちを限りなく愛してくださった。その愛を受けたからこそ、わたしたちは神の御心を行うべきだし、行うことができる」という面があるのです。「恵みによって救われる」、「(その恵みを受け入れる)信仰によって義とされる」というのはキリスト教信仰体験の核心です。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしたちの行いに先立つ神の恵み&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;がなければ、自分の力で律法を守り、神の前に自分を誇ろうとしたファリサイ派と同じ落とし穴に落ちてしまう危険があるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　24-27節の岩の上に建てた家と砂の上に建てた家のたとえは分かりやすいでしょう。ここでは「聞いて行うか、聞くだけで行わないか」が鋭く問いかけられています。これは、きょうの箇所の前半(21-23節)のテーマとつながっています。&lt;br /&gt;　土台である「岩」は「イエスの言葉を聞いて行う」ことです。このイエスの言葉は、天の父の御心を現し、その御心を行うように教える言葉です。では「家」は何でしょうか。自然に考えれば、わたしたち自身、そして、わたしたち一人一人の生き方ということになるでしょう。しかし「家」のイメージは、教会共同体のイメージにつながるかもしれません。個人的な生き方の問題だけでなく、わたしたちの共同体が何を土台にしているか、という問いかけも大きな意味を持っているのではないでしょうか？&lt;br /&gt;　ところで、この「家と土台」のたとえを読んで、サイクロンや地震などの大きな自然災害のことを思い浮かべる人もいるでしょう。災害には、ほとんどいつも天災という面と人災という面があります。人間にはどうにもできないことと、どうにもならない天災の中でも人間にできることがあるのです。そんな中で、「では、わたしたちにできることは何なのか」という問いかけが大切になってきます。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2008525_65158_bd6d.html">
<title>キリストの聖体 (2008/5/25 ヨハネ6章51-58節)</title>
<link>http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2008525_65158_bd6d.html</link>
<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」ダウンロードができます ...</description>
<content:encoded>&lt;table id=&quot;AutoNumber1&quot; bordercolor=&quot;#111111&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; width=&quot;400&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;BORDER-COLLAPSE: collapse&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;406&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;教会暦と聖書の流れ&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0525.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0525.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0525.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国では日曜日に移して祝われます。教会暦の流れから言えば、この祭日は、三位一体の主日と並んで四旬節・復活節の「余韻」と言ってもよいでしょう。聖体は、「キリストの死からいのちへの過越(すぎこし)」にわたしたちが結ばれることを意味しているのです。なお、特別に聖体の制定を記念するミサは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」です。「聖体」という同じテーマを、復活節が終わった今、もう一度味わい直すことになります。 A年の福音の箇所は、ヨハネ6章から採られています。イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人以上の群集に分け与えたという出来事をきっかけにして、パンをめぐるイエスと人々の対話が始まりますが、そのイエスの言葉の頂点と言うべき箇所がきょうの箇所です。 &lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=383,height=335,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/05/16/0525.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0525&quot; height=&quot;87&quot; alt=&quot;0525&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/05/16/0525.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　 (1)　51節、58節にはほとんど同じような表現「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;天から降(くだ)って来たパン&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;このパンを食べるならば永遠に生きる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」が繰り返され、きょうの箇所の枠組みのようになっていますが、ここにこの箇所全体のテーマが指し示されていると考えたらよいでしょう。&lt;br /&gt;　「天から降って来た」という表現は、イエスが「父である神のふところにおられ、神から遣わされた」方であることを暗示しますが、一方では旧約聖書の「マナ」との結びつきを思わせる表現でもあります。31節で引用されている詩編78編23-25節に「神は上から雲に命じ／天の扉を開き　彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり　人は力ある方のパンを食べた」とあります。「マナ」はイスラエルの民を荒れ野の旅の中で養った不思議な食べ物でした(出エジプト記16章、民数記11章参照)。荒れ野という必要な食べ物に事欠く状況の中で、民は神が自分たちを生かしてくださっていることを体験しました。そのシンボルが「マナ」なのです。イエスが荒れ野の誘惑のときに引用した申命記8章3節も「マナ」についての言葉です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ことをあなたに知らせるためであった」人は食べ物によって生きるのではなく、神によって生きる。これがマナの意味していたことだったのです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　ヨハネ6章でイエスがパンについて語っていることは、35節以降一貫して「わたしはパンである」ということでした。もちろんそれは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスが人のいのちを真に生かす方である&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」ということを意味しています。そして「このパン(イエス)を食べる」ということは、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスのもとに来て、イエスを信じる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」ということを意味しています。きょうの箇所の始めにある「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節前半)はその典型であり、頂点だと言えます。&lt;br /&gt;　一方、51節の終わりには「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、ここでは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエス＝パン&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」ではなく「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスが与えるもの＝パン&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」になっています。微妙な変化ですが、ここから直接的に「聖体のパン」のことが語られていると考えることができるでしょう。なお、58節の「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;これは&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;天から降って来たパンである」は「イエス＝パン」と「イエスの与えるパン＝聖体」の両方の意味を含む、全体のまとめの文章だと考えられます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　53～56節では「わたしの肉を食べ」と「血を飲む」というなまなましい表現が使われています。ここでは、聖体のパンとぶどう酒を実際にいただくことが強調されているのでしょうか。あるいは、イエスの「むさぼられ、食い尽くされる体、流される血」という受難のイメージとのつながりがあるのでしょうか。&lt;br /&gt;　いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と｢聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)｣は別々のことではなく、1つのことと考えられているのでしょう。続く56-57節でもそのことがはっきりと示されています。「&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;56&lt;/span&gt; わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;57&lt;/span&gt; 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ヨハネ福音書は、聖体を「食べれば何かよいことがある魔法のお薬」のように考えているのではありません。「コムニオcommunio(聖体拝領を意味するラテン語)」によって実現するのは、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人がキリストのうちにいて、また、キリストがその人のうちにいる&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」ようになること、そして「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人がキリストによって生きるものとなること&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」なのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　&lt;strong&gt;&lt;u&gt;わたしたちは何によって生かされているのか&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;。きょうの福音はそのことを問いかけてきます。この問いかけは、「わたしたちがイエスによって、聖体によって生かされるとは本当のところどういうことか」と言い換えてもよいかもしれません。&lt;br /&gt;　「わたしはいのちのパンである」というような宣言は、ヘタをすると単なる言葉による自己主張のように聞こえてしまうかもしれませんが、その背景にはいつもイエスの実際の行動・生き方があります。その意味で、6章のはじめの5つのパンと2匹の魚の話を思い出すことは大切でしょう。イエスがなさったことは、ただ単にパンを増やしたということでしょうか？　パンを分けたときのイエスの動作に注目してみましょう。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(6章11節)。このイエスの動作が表していることは、5つのパンを物理的に5千分の1にするということではなく、このパンを与えてくださった神とのつながりを確認し、同時に、共にパンを分かち合う人と人とのつながりを確認するということではないでしょうか。イエスのいのちとは、十字架の死と復活にいたるまで、このような&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神とのつながり、人とのつながりによって生かされたいのち&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;だったと言えるでしょう。わたしたちはそういういのちを生きているでしょうか。どんなときにわたしたちはそのようないのちを感じることができるでしょうか。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

<dc:creator>ct</dc:creator>
<dc:date>2008-05-16T15:25:47+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2008518_31618_6b18.html">
<title>三位一体の主日 (2008/5/18 ヨハネ3章16-18節)</title>
<link>http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2008518_31618_6b18.html</link>
<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」ダウンロードができます ...</description>
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&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0518.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0518.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0518.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日になっています。教会の暦は、四旬節から復活節という約3ヶ月間をかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。その余韻のようなこの祝日は、「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、神の大きな救いの出来事を振り返り、父と子と聖霊の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=239,height=235,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/05/09/0518.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0518&quot; height=&quot;98&quot; alt=&quot;0518&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/05/09/0518.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 　　(1)　福音の箇所は、非常に短い箇所です。ヨハネ福音書3章1節から始まったイエスとニコデモというファリサイ派の議員との対話の中で語られる言葉です。ギリシア語原文には、会話文を示す「　」(かぎカッコ)のような記号はありませんから、10節から始まったイエスのニコデモに対する言葉がどこまで続いているかは、内容から判断するしかありません。新共同訳聖書は21節までをイエスの言葉として全体を「　」の中に入れていますが、16節からは福音記者の文章(地の文)と考えることもできます。朗読聖書に「そのとき、イエスは言われた」という冒頭の言葉がないのは、こちらの考えからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　14-15節と16節は以下のように対応しています(ここでは、比較のために少し直訳的な表現にしてあります)。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; 14　そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; 15　　　それは、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;信じる者が皆&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;、彼によって&lt;strong&gt;&lt;u&gt;永遠の命を得るためである。&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt; &lt;br /&gt;&amp;nbsp; 16a 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 &lt;br /&gt;&amp;nbsp; 16b 　　彼を&lt;strong&gt;&lt;u&gt;信じる者が皆&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;滅びないで、&lt;u&gt;&lt;strong&gt;永遠の命を得るためである。&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;　&lt;br /&gt;　15と16bはほとんど同じですので、14と16aも関連がありそうです。「人の子が上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」という意味が含まれています。だとしたら「与える」はただ「イエスを世に遣わした」ということよりも「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;十字架の死に至るまで与え尽くされた&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」と受け取ることができるでしょう。&lt;br /&gt;　「世」という言葉は、ヨハネ福音書では特別に「神を知らず、神から離れたこの世界」を指します。しかし、だからと言って、この世は救われない世ではなく、神がイエスをとおして大きな愛をもって救おうとなさった世なのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　18節の「裁き」は「断罪する」の意味です。「信じない者は既に裁かれている」という言葉は厳しく響きますが、この箇所の続きに現れる「光と闇」のイメージをヒントに考えてみてはどうでしょうか。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3章19-21節)。神がもたらすものは決して裁き(断罪)ではないのです。神は圧倒的な光としてイエスを与え、闇の世を照らそうとされたのです。その光を受けたときに人は救いの中に入っていき、その光を拒否するならば闇の中に留まることになる･･･ヨハネは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;闇の中に留まること」が「断罪されること(救いから外れること)&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」と考えているわけです。このようにヨハネが感じているのは、ヨハネ自身が&lt;strong&gt;&lt;u&gt;闇の中でイエスの光を見いだしたという体験、神の愛を感じたという体験&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;を持っているからでしょう。わたしたちはどうでしょうか？ &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　何をあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、その人のために時間を使うこと、その人とともにいる時間を過ごすことが最高の愛だと感じることがわたしたちの体験の中にあるかもしれません。それは「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;モノではなく、自分自身を与えること&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」だからです。「父とそのひとり子イエスは一つである」という信仰は、きょうの福音の「神がひとり子をお与えになった」ということを、「神がイエスという方において、ご自分のすべてを与えてくださった」ことだと受け取る光を与えてくれます。イエスのなさったすべてのこと、イエスの生涯のすべては、神がわたしたちとともにいてくださり、わたしたちにご自分のすべてを与えてくださったことの表れなのです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　イエスの弟子たちが体験したことは、神の人間に対する決定的な救いの働きが、「イエスの派遣」「聖霊の派遣」という二通りの仕方でなされた、ということでした。イエスという具体的なひとりの人間の言葉と生き方をもって、神は人に語りかけ、人が神に近づく道を示されました。弟子たちは、イエスをとおして、神の愛と神の救いを知ることができたのです。一方イエスが世を去って神のもとに行かれたのち、弟子たちは自分たちのうちに働き、自分たちを導く内面的な力を感じ、それを聖霊と呼ぶようになりました。それはどの時代のどんな人の中にも直接働きかける神の力だといってよいでしょう。イエスの&lt;strong&gt;&lt;u&gt;父である神&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;が、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;子であるイエス&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;と&lt;strong&gt;&lt;u&gt;聖霊&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;を通してわたしたちに決定的な救いの働きかけをしてくださった。ここに「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;救いの三位一体的な構造&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」が現れてきます。&lt;br /&gt;　また、わたしたちが神に向かって歩んでいこうとするときにも、この三位一体的構造が大切になります。わたしたちキリスト者は「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;キリストの言葉と生き方&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」を見つめ、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;聖霊という内面に働きかける神からの力&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」に支えられながら、父である神への道を歩んでいきます。このような「三位一体的構造」は教会の祈りの中にも現れています。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;聖霊に支えられ、御子キリストをとおして、父に向かう&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」のが、ミサをはじめとする教会の祈りの基本的な形なのです。&lt;br /&gt;　「父と子と聖霊」とはわたしたちの生き方と関係ない神学的で抽象的な教えだと考えるよりも、このようにわたしたちと神との関わりのダイナミズムとして捉えることが大切でしょう。わたしたちは日々どのように神からの働きかけを受け取り、どのようにその働きかけに応えようとしているでしょうか。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

<dc:creator>ct</dc:creator>
<dc:date>2008-05-09T17:47:43+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2008511_201923_3458.html">
<title>聖霊降臨の主日 (2008/5/11 ヨハネ20章19-23節)</title>
<link>http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2008511_201923_3458.html</link>
<description>教会暦と聖書の流れ 聖書本文 「ワード文書」 「PDF」ダウンロードができます ...</description>
<content:encoded>&lt;table id=&quot;AutoNumber1&quot; bordercolor=&quot;#111111&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; width=&quot;400&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;BORDER-COLLAPSE: collapse&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;406&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;教会暦と聖書の流れ&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;143&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text0511.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;聖書本文&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;

&lt;td width=&quot;319&quot;&gt;&lt;p align=&quot;center&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0511.doc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「ワード文書」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint0511.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;「PDF」&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 0.8em;&quot;&gt;ダウンロードができます&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;

&lt;p&gt;　日本語では「聖霊降臨」ですが、ラテン語などヨーロッパ諸言語では元のギリシア語のまま「ペンテコステ」(「50番目」の意味)と呼ばれる日です。第一朗読の使徒言行録2章1-11節の記事に基づき、復活祭から50日目の日曜日に、使徒たちの上に聖霊が降(くだ)り、教会の活動が始まったことが祝われます。一方、福音の記事は復活節第二主日にも読まれた箇所で、復活の日の夕方、使徒たちに聖霊が与えられたことを伝えています。日付や場面は異なりますが、イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことが記念されるのです。ここでは、ヨハネ福音書と使徒言行録の両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きを味わうことにします。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #000080;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;BACKGROUND-COLOR: #dddddd&quot;&gt;福音のヒント&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=315,height=219,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/05/02/0511.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;0511&quot; height=&quot;69&quot; alt=&quot;0511&quot; src=&quot;http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/05/02/0511.jpg&quot; width=&quot;100&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: right; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt;　　 (1)　福音の箇所全体については、復活節第二主日の「福音のヒント」を参考にしてください。今回は特に聖霊に注目します。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。&lt;u&gt;&lt;strong&gt;「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「プネウマ」とか「ルーアッハ」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼びました。&lt;br /&gt;　聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです。なお「舌」のギリシア語は「グロッサglossa」で、これは6節の「言葉」と同じ語です。「炎のような舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物が、言葉の賜物であることを象徴しているのです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)　 聖霊の働きは非常に広いものです。ヨハネの「息を吹きかけて」は創世記2章でアダムが創造された場面を思い起こさせます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」。神の働き・神とのつながり(聖霊)なしに人は生きることができないのです。詩編104編29-30節でもすべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われています。「御顔(みかお)を隠されれば彼らは恐れ／息吹を取り上げられれば彼らは息絶え／元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し／地の面(おもて)を新たにされる」。この広さは大切です。「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;風(プネウマ)は思いのままに吹く&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(ヨハネ3章8節)と言われるように、聖霊が働く範囲を人間が限定することはできません。聖霊は秘跡の中だけに働く、とか、教会の中だけに働く、とか、ましてわたしの中だけに働くとは誰も言えないのです。人が意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているということは大切なことです。しかし、人が特別に聖霊を意識するときがあります。聖書を見るとそれは2種類の体験に関係しているようです。1つは、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;であり、もう1つは、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;神と人・人と人とが結ばれるという体験&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;です。 　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(3)　人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを痛感します。しかし、何とかこのミッションを果たせたとするならば、そこに不思議な仕方で神が助けてくださった、という実感があるはずです。それは自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。聖書の中でもこのような神の働きが「聖霊」と呼ばれています。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降ると表現されています(Ⅰサムエル16章13節、イザヤ61章1節参照)。新約聖書の中では、成人したイエスが&lt;strong&gt;&lt;u&gt;ヨルダン川&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録２章の&lt;strong&gt;&lt;u&gt;ペンテコステ&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;の出来事でも、弟子たち(最後までイエスについていけなかった弱い弟子たち)が福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降るのです。ヨハネ20章で、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることも聖霊の授与と結ばれています。&lt;br /&gt;　使命と聖霊との結びつきは、わたしたちの&lt;strong&gt;&lt;u&gt;洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者・ゆるしの秘跡)&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;のテーマでもあります。もちろん、これは秘跡だけでなく、人が神からのミッションを生きようとするとき、繰り返し体験することだと言えるでしょう。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(4)　絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないようなことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。&lt;br /&gt;　福音で命じられる「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;ゆるし&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;」(神と人・人と人との関係回復)の実現は、聖霊の働きと切り離せません。また、使徒言行録2章のように、理解し合えないと思われていた異なる言語の人々の間に、&lt;strong&gt;&lt;u&gt;相互理解&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;が生まれるとするならば、それも聖霊という神の力によると言えるでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(30-31節)と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、「&lt;strong&gt;&lt;u&gt;霊の結ぶ実は愛&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22-23節)と断言しています。 　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(5)　聖霊について人間が頭で理解しようとしても難しいと感じられるかもしれません。聖霊の働きとは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、頭で理解しづらいのは当然でしょう。大切なのは聖霊を頭で理解することよりも、わたしたちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他の人の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることなのです。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>

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<dc:date>2008-05-02T16:54:05+09:00</dc:date>
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