« 年間第15主日 (2009/7/12 マルコ6章7-13節) | トップページ | 年間第17主日 (2009/7/26 ヨハネ6章1-15節) »

2009年7月10日 (金)

年間第16主日 (2009/7/19 マルコ6章30-34節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

「ワード文書」    「PDF」
ダウンロードができます

 イエスが12人の弟子を派遣した先週の箇所の結びには、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6章12-13節)とありました。続く14-29節には、弟子たちがイエスとともにいなかった時間を埋めるかのように、洗礼者ヨハネの殉教の物語が伝えられています。ですから、きょうの箇所は内容的には13節から続いているのです。
 この後、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与える話になっていきますが、実は、来週の福音は同じ話をヨハネ福音書から読むことになり、ヨハネ6章の朗読が5週間続きます。年間主日のマルコの朗読が再開されるのは、年間第22主日(マルコ7章)からです。

福音のヒント

  (1) 30節の「使徒」という言葉は、マルコ福音書ではすでに3章で使われていました。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3章14-15節)。「使徒」は、ギリシア語では「アポストロスapostolos」で、「アポステローapostello(遣わす、派遣する)」という動詞から来ています。意味は「遣わされた者」です。遣わされた者の使命は「神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出す」ことですが、これはイエスがしてきたことと同じことだと言えます。「使徒」はイエスの近くにいた12人の弟子、初代教会では、復活したイエスに出会い、イエスから派遣された特別な人を指す言葉ですが、福音書を読むときは、いつもわたしたち自身が「遣わされた者」であることを忘れないようにしましょう。2000年前のガリラヤとユダヤでイエスがしていたことを、今のわたしたちが自分の置かれた場でなんとか行なっていこうとするとき、わたしたちも「使徒」だと言えるはずです。

   (2) イエスは群衆の「飼い主のいない羊のような有様」(34節)を見ます。羊は弱い動物なので、群れを離れると滅んでしまいます。「飼い主=羊飼い=牧者」の役割は、羊の群れを一つにまとめ、野獣から守り、草のあるところに導くことでした。右上の写真は、イスラエル占領下にあるゴラン高原(ガリラヤの北西にあたる)で見かけた羊と羊飼いです。この羊飼いはドゥルーズ人というアラブ系の人のようでした。イスラエル人の先祖も羊飼いでしたので、旧約聖書には「飼い主のいない羊」のイメージがたびたび現れます。
 一番印象的なのはエゼキエル34章でしょう。エゼキエルは、人々を守らず、かえって人々から奪い取るだけのイスラエルの牧者たち(指導者たち)を厳しく批判してこう言います。
 「3 お前たちは乳(ちち)を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠(ほふ)るが、群れを養おうとはしない。4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」
 そして民の姿を次のように表現しています。
 「5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣(けもの)の餌食となり、ちりぢりになった。6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいない
 そして、神ご自身が「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(11節)、また「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧(ぼく)させる」(23節)と約束されます。イエスはこの牧者として人々に目を注いでいます。

   (3) 34節の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は、新約聖書の中で12回使われていて、そのうちマタイ福音書に5回、マルコに4回(この箇所のほか、1章41節、8章2節、9章22節)、ルカに3回使われています。この言葉については他の箇所でも説明しました(C年年間第15主日の「福音のヒント」など)が、「スプランクノン(はらわた)」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、「はらわたする」と訳した人もいます。「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ことを表します。相手の痛みをわがことのように感じてしまう深い共感(コンパッションcompassion)を表す言葉なのです。イエスの愛の行いはいつもここから出てきていると言ってもよいのでしょう。
 きょうの箇所で、この深い共感からイエスがしたことは「教え始められた」ということでした。マルコはいつものように教えの内容を伝えていません。もちろんそれは「神の国(神が王となること)」のメッセージです。「王」と「羊飼い」のイメージはつながっています。この箇所のイエスの教えは、「野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」(エゼキエル34章5節)羊たちを一つの集め、力づける牧者としての言葉だと考えればよいでしょう。わたしたちもそのようなイエスの言葉を聞くことがあるでしょうか。

   (4) 現代社会に生きているわたしたちの多くはたぶん疲れています。31節でイエスは弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われましたが、わたしたちもこの言葉を切実に必要としているかもしれません。
 ただし、この場面の弟子たちは簡単には休めなかったようです。群集が押し寄せてきたからです。きょうの箇所の後の5つのパンと2匹の魚の話では、弟子たちは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)と命じられ、大群衆にパンを配るのを手伝わされています。結局のところ、休むことはできなかったのでしょうか。
 イエスが「教え」「パンを分け与える」、これは「ことばの典礼」と「感謝の典礼」からなる「ミサ」そのものと言えるかもしれません。いろいろな休み方がありますが、本当の休みはイエスのもとにいて、イエスとともに時を過ごし、イエスの言葉を聞き、イエスの食卓にあずかること。そう感じることができたらどんなに素晴らしいことでしょう!

« 年間第15主日 (2009/7/12 マルコ6章7-13節) | トップページ | 年間第17主日 (2009/7/26 ヨハネ6章1-15節) »

2009年(主日B年)」カテゴリの記事

コメント

キリストを感じる事をミサに限定しているようにも思われますが…
信者の方達はそう思ってる人が殆んどなのかな?
あと、ここからは神に一言も二言も言ってやろうか
どうやらキリストは肉体を有していた時に比べ、霊?になったら綺麗や美しいものを好むようになってしまったように感じられる
聖霊とやらの救いの業もたかが知れていそうだ
立派な建物の中にのみ存在し、信者の誉め讃える言葉に酔いしれる神など神と言えるのだろうか?
まして救いの神などと
神であるならば霊になったからと高慢にならず、肉体の苦しみを有していた初心というものを忘れないで覚えているべきだ
じゃないと何もかも無意味になる

洗礼者ヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないと、「あれは悪魔につかれている」といい、また人の子が来て、食べたり飲んだりすると、「あれは食いしん坊で大酒飲みで徴税人や罪人の仲間だ」と言う―そんなふうにならないようにしたいものです。イエスが日々これ以上ない愛を込めてご自分のいのちを私たちに与えてくださる。えらそうなのは、誰でしょうか。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/501270/45590982

この記事へのトラックバック一覧です: 年間第16主日 (2009/7/19 マルコ6章30-34節):

« 年間第15主日 (2009/7/12 マルコ6章7-13節) | トップページ | 年間第17主日 (2009/7/26 ヨハネ6章1-15節) »