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2009年7月 2日 (木)

年間第15主日 (2009/7/12 マルコ6章7-13節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 先週の福音で、ナザレでの活動の後、「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(6章6節)とありました。イエスの活動が広がっていくのに伴い、12人の弟子が派遣されます。マルコ福音書では、3章で12人の弟子が選ばれていました。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3章13-15節)。ずっとイエスのそばにいて、イエスのなさることを見てきた弟子たちが、いよいよ派遣されるのがきょうの場面です。

福音のヒント

0716   (1) なぜ「二人ずつ組にして」なのでしょうか? これについてはいろいろな意味が考えられるでしょう。申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」という規定があります。これは裁判のときに複数の証人がいればその証言は確かであるということですが、神の国をあかしする場合も同様に考えられているのかもしれません。また、二人が一緒に旅をするならば互いに助け合うことができ、心強いことも確かです。さらに言えば、互いに助け合い、愛し合う姿をとおして神の国・神の愛を伝えることができる、と言えるかもしれません。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章35節)。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Ⅰヨハネ4章13節)。わたしたちの中でも同じことが言えるでしょうか?

  (2) マタイ10章5-15節、ルカ9章3-5節、さらにルカ10章2-12節(72人の派遣)にも弟子の派遣にあたっての同じような指示がありますが、細部には違いがあります。複数の伝承に基づいて各福音書が書かれていますが、弟子たちの使命と心構えは、基本的には共通しています。「杖」は野獣や盗賊から身を守るために用いられることもあり、旅には必要なものと考えられていました。マタイやルカには杖と履物についても禁じることばがありますが、マルコのほうが現実的かもしれません。旅をするのに必要最小限のものは許されるのです。「袋」は食べ物やお金を入れておく袋のようです。「下着は二枚着てはならない」は重ね着を禁じているわけですが、これは野宿のときに着る外套のようなものを持っていくな、という指示かもしれません。だとすれば、弟子たちはどこかの家に泊めてもらうべきだと考えられていることになります(10節参照)。弟子たちには、誰の世話にもならなくてもよいようにすべてを自分で準備しておくことではなく、人と出会い、宿のことでも食べ物のことでも人の世話になることが求められている、と言えるでしょう。必ず迎え入れてくれる人がいる、という約束の背景には、もちろん、神がすべてを配慮してくださるから、ということがあるはずです。
 わたしたちは、小さいときから「自分のことは自分でしなさい」と教えられてきました。それはそれで大切なことであるはずです。しかし、神からの派遣(ミッション)を生きるときには、神への大きな信頼と、人との出会いに対する信頼が大切だということでしょうか。

   (3) もちろん、すべての人がイエスの弟子たちを受け入れてくれるとは限りません。受け入れられない場合に「足の裏の埃(ほこり)を払い落とす」というのは絶縁を意味する表現だそうです。使徒言行録13章51節や18章6節では、使徒パウロが同じような仕草をしています。これは「あなたたちのことは神の裁きに任せる」ということであり、自分が恨んだり、自分で復讐しようとはしない、ということだと言ってもよさそうです。それにしても「絶縁しなさい」というのは、冷たく聞こえるかもしれません。むしろ「救いのメッセージを受け入れない人がいることは仕方ない。その人々をどうにかしようとするよりも、救いのメッセージを必要としている人のところへ向かえ」という意味で受け取ることもできるのではないでしょうか。弟子の派遣にあたってのイエスのこれらの指示は、文字通り実行すべきことというよりも、「愛する」という唯一の掟のもとで受け取るべきでしょう。

  (4) 7節の「汚れた霊に対する権能」は悪霊を追い出す力のことです。12-13節には「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とありますが、これはイエスがなさってきたことと同じことです。「宣教する」と訳された言葉はギリシア語では「ケリュッソーkerysso」で、直訳では「宣(の)べ伝える」です。「何かの教えを宣べる」というよりも、「神の国を宣べ伝える」のです。これこそがイエスの活動の中心でした。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1章14-15節)。
 イエスは悪霊を追い出し、多くの病人をいやしましたが、「油を塗って」いやしたという記録はありません。ここにはむしろ初代教会の実践が反映しているようです。ヤコブの手紙5章14-15節にこうあります。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます。」病者の塗油の秘跡のときに読まれる箇所ですが、初代教会の中でこのような実践のあったことが確かめられます。
 復活したイエスの派遣は全世界に向けて世の終わりまで続く派遣ですが、きょうの箇所の派遣は地理的にも時間的にも限定されたものでした。しかし、ここで弟子たちが派遣され、自分たちも働くことができたという体験は、彼らにとって貴重なものだったでしょう。イエスはこのようにして、少しずつ弟子たちを成長させてくださったと言えるのではないでしょうか。そしてわたしたちをも・・・・。

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コメント

ウリエルさんの所にも使徒が来ますように。
さて、彼はどんな批判をされるのでしょうか。

足の裏の埃を払い落とす…という箇所ですが、心に敵意を隠しながら神の裁きに任せている、なんて人に私なら信頼は置けませんね
でもまあ、人間なんてそんなものか
あ、それから、私のような批判をするわからずやなどほっといて、本当に福音を必要とする人に目を向けた方が効率的だと思います
あと、悪霊に取りつかれた人の話が現代でも真しやかに語られてるように見受けられますが、もしそうなら悪霊につかれた人というのをどう定義するのでしょうか?
私は悪霊とか完全に信じてない派なので、これも信仰なくしては理解不能なのかな?

ウリエルさんの発言が、信仰をゆるぎないものとする助けになっています。福音のヒントをよく読まれていますね。信仰は、委ねるということですから、何も隠し立てなどできません。それは、人と人との信頼関係にもつながってくる態度になるのだと思います。人は救いを求めるからではなく、委ねれば自ずから救われると私は感じています。

ウリエルさんへ。
足の裏の埃を払い落とす行為は、当時のイスラエル社会において「自分がここへ来た証し」を示す行為であることを心に留めてもらいたい。ウリエルさんの考え通り使徒達が行動していればそれはイエスの考えに反する行動だから。絶対にありえない。
いいのです。認められなくても。「証し」を残せばそれでいいのです。決して敵意だった行動ではないことを理解してもらいたい。
まるで、今のウリエルさんの気持ちですね。「認めてもらいたい。でも、認めてくれない。」

ずっとウリエルさんのコメントを読んでいるが、最近、コメントの書き込みの文章に慎重さが表れているみたいです。多くの信徒があなたの書き込みに注目していることは認めるべきです。批判されていても多くの信徒は目に留めても信じないでしょう。でも、毎回こうやって書き込みなされているパワーをここだけでなく、他の信徒達にぶつけてみてはいかがでしょうか。
少なくても、今のあなたなら、戦えるのではないでしょうか。勝利するとは限りませんが。
くれぐれも聖書に出てくる「律法学者」みたいにならないでもらえたら、幸いですね。

イエスは弟子に、準備もいらない、完璧な人でなくていい、人の世話になっていい、しかもひとりで頑張らなくていい、ただ神に信頼して神の国を宣べ伝えるよう派遣したのですね。イエスの「行きなさい」に信頼して。

昔、初めて聖書(子供向きのではなくて、正式な福音書という意味)を読んだ時、悪霊という言葉に驚き、聖書というのはもう少し知的なものかと思っていたのに悪霊などと、迷信的なことを言っているのかと思っていたのを思い出しました。けれども年月がたち、こちらも10代の女の子からいい年のおばはん化して、今の時代を見る時、まさにこの時代の背景に蠢くなんとも言いようのないものに、なるほど悪霊と呼ぶしかないものがあるのだと考えるようになった昨今です。

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