キリストの聖体 (2009/6/14 マルコ14章12-16, 22-26節)
教会暦と聖書の流れ |
聖体の制定を記念するミサは、聖週間中の聖木曜日に行なわれる「主の晩さんの夕べのミサ」です。しかし、復活節が終わった後、改めてキリストの聖体の祭日を祝います(本来は聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。この日も先週の三位一体の主日と並んで、四旬節・復活節のまとめと言えるでしょう。聖体の秘跡とはイエスの受難・死・復活にわたしたちが日々結ばれて生きるための秘跡だからです。B年の福音朗読は、マルコ福音書の最後の晩さんの箇所です。
福音のヒント
(1) 過越祭(すぎこしさい)は春の祭で、元来は農耕生活に関連した祭だったようですが、古代イスラエルで、エジプト脱出という救いの出来事の記念祭として祝われるようになりました。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された救いの歴史の原点を記念する過越祭は、1年でもっとも大きな祭でした。過越祭に始まる1週間の祭の期間が「除酵祭(じょこうさい)」です。「酵母を取り除く祭」の意味で、過越祭に続く7日間、酵母の入っていないパン(種なしパン)を食べました。
マルコ福音書はイエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。ヨハネ福音書では日付が1日ずれています(ヨハネ18章28節参照)が、いずれにせよ新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」であると考えているのです。
(2) 水がめを運ぶのは当時、女性の仕事でした。ですから、男性が水がめを運んでいれば、特別な目じるしになります。イエスはこの過越の食事をする場所の手配を誰かに頼み、しかも、それを普通には分からない方法で弟子たちに教えようとしたことになります。弟子たちにとってこのことは「すべてがイエスによってあらかじめ整えられていた」と感じさせることだったでしょう。わたしたちにもそういう経験があるかもしれません。
それにしても、イエスはなぜこのように暗号のような指示をしたのでしょうか。一つの考えはこうです。イエスはご自分に迫っている危険を予感し、受難が避けられないことを知っていました。その状況の中で、外部の人に分からない場所でこの食事をしようとしたのです。それは「誰にも邪魔されずに、どうしてもこの食事だけはしておきたい」というイエスの強い思いの表れではないでしょうか(ルカ22章15節参照)。わたしたちもこの食事に込めたイエスの思いを深く感じ取りましょう。
(3) 「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて」は、5つのパンを大群衆に分け与えたとき(マルコ6章41節)の動作とまったく同じです。ユダヤ人の食事の際には、家長に当たる人がそのようにするのが普通だったと言われています。しかし、イエスはここで特別なことを言いました。「体」は人間全体を指す言葉で、「これはわたしの体である」は「これはわたしだ」という意味だと言えます。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることです。イエスは世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとしたと言ったらよいでしょう。
杯についての言葉は、新共同訳では「わたしの血、契約の血」となっていますが、原文では「血」という言葉は1度しか使われていません。直訳では「契約の、わたしの血」です。「契約の血」は出エジプト記24章8節にある言葉です(第一朗読)。牧畜民族にとって「契約」と「血」は切り離せないものでした。それは、その契約がお互いの血を賭けたもの=命がけのものであることを表したのです。「これは・・・わたしの血」は「これはわたしの体」という表現に似ていますが、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」です。イエスは自分の死をすべての人の救いのための死であると自覚していたことになります。
(4) 「契約」という言葉は聖書の中で「神と人との特別な関係」を表す言葉です。出エジプト記24章で結ばれた契約は、シナイ契約と呼ばれています。紀元前13世紀、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、その救いを体験した民は神との特別な関係を生きることになります。これを表すのが「契約」という言葉です。そこではイスラエルの民が神に対し、人に対してどう生きるべきかを示す道として「律法」が与えられました。しかし、イスラエルの民は神との関係、人と人との正しい関係を見失っていきます。そこで紀元前6世紀のバビロン捕囚時代の預言者たちは、「新しい、永遠の契約」を予告することになります。典型的なのはエレミヤ書31章です。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪をゆるし、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31章33-34節)
(5) イエスの死によって実現したのはまさにこの「新しい契約」だ、というのが新約聖書の中心テーマです。それはどういう意味でしょうか。イエスの生涯全体の歩みを見れば、イエスという一人の人の中で上のエレミヤのことばが完全に実現していたと言えるでしょう。もう一つには、わたしたちがイエスの十字架の姿を見たときに、神の深い愛の心を悟り、エレミヤのこの言葉を生きるものに変えられていくという面もあるはずです。それこそが聖体の意味でもありますが、本当にわたしたちの中で実現しているでしょうか。
25節の「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」は受難予告のような言葉です。しかし同時に「神の国で新たに飲むその日まで」ということによって、最終的な完成に向かう意識が強調されています。「新しい契約」は確かにイエスによって実現しました。しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは将来のことだとも言えます。そこに向かって歩むための糧として、聖体が与えられているのです。


言葉の神は自分の過ちを何時まで人類のせいにするのやら…
あなた方信者を使って
一言言わせてもらえば、その聖体とやらに頼らずとも、あなた方の心が他を受け入れられるかどうかでしょ?
まあ、あなた方の教えを否定している私に言われたくはないでしょうがね
それに、神自身が悪を癒せる者でもなければ、憎み嫌っているし、無理な事なんでしょうけどね~
投稿: ウリエル | 2009年6月 8日 (月) 00時46分
ウリエルさん、三位一体の主日のコメントがありませんが、否定できないみたいですね。
是非、否定のコメント書いてください。あなたのコメント、面白いので。
投稿: ウリエルのウリは私たちの意味? | 2009年6月 9日 (火) 07時07分
ウリエルさん、弱い人間が、聖体に頼ったとしても、他を受け入れられるならば、そのほうがいいとは思いませんか?
投稿: セラフィム | 2009年6月 9日 (火) 16時25分