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2009年6月26日 (金)

年間第14主日 (2009/7/5 マルコ6章1-6節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 先週の福音では、出血の止まらない女性の病気がいやされ、会堂長ヤイロの娘がイエスによって生き返らされました。そこでは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5章34節)「恐れることはない。ただ信じなさい」(5章36節)というように、「信じること」が大きなテーマでした。きょうの箇所は先週の続きの箇所ですが、ここでも「信じる」というテーマが大切だと言えるでしょう。

福音のヒント

0709   (1) イエスの育った故郷は、ガリラヤのナザレという村でした。右の写真は、マリアが天使からお告げを受けたことを記念して建てられた「告知教会」から見た今のナザレの町並みです。今は何万人もの人が住む町ですが、イエスの時代には特に大きな町ではなく、有名な町でもありませんでした。ナザレには会堂があり、安息日ごとにユダヤ人たちがその会堂に集まって礼拝していました。他の町や村で病人をいやしたイエスの評判はナザレの人々にも届いていたのでしょう。ナザレの人々は会堂で語るイエスに注目しています。

   (2) マルコはイエスが教えたことの内容をいちいち伝えません。それはいつも「神の国の到来の福音」(マルコ1章14-15節参照)であったと考えればよいでしょう。ルカ4章16-30節には、イエスの活動の初期の出来事として、ナザレの会堂での出来事が伝えられています。そこでイエスはまず、イザヤ書の61章(1-2節)を朗読しました。
 「『18 主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。』20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」
 苦しむすべての人を解放する神の救いの時が、今まさに始まっている。これがイエスの神の国のメッセージでした。人々はイエスのメッセージそのものには反対していません。ただ、それを語るのが自分たちの良く知っているイエスであることにつまずくのです。

   (3)「この人は、大工ではないか」の「大工」とは家を建てる人というよりも、家の内装や家具を作る職人だったようです。アラム語では「いとこ」にあたる言葉がないので、この箇所の「兄弟」「姉妹」という言葉の中にはいとこも含まれているそうです。教会の伝統では、母マリアはヨセフと結婚してからも生涯処女のままで、イエス以外に子どもがいなかったと言われてきましたが、それと矛盾するわけではありません。
 ナザレの人々は「つまずいた」(3節)と言われ、また「不信仰」(6節)とも言われています。ナザレの人々はなぜイエスにつまずいたのでしょうか? なぜ信じなかったのでしょうか? いろいろな理由が考えられますが、以下の(4)と(5)で2つのことを考えてみましょう。

   (4) 大工の子は大工になる。それが当時の常識でした。「この村の一員であり、この家族に属し、この職業についている」ナザレの人々は、イエスの村での立場をよく知っていたので、かえってその見方を超えることができず、イエスが、預言者として神との特別なつながりの中で活動していることを理解できなかったのではないでしょうか。だから「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」だと言われるのです。
 わたしたちが人を見るときも、やはり、社会的な評価を超えられないことがありそうです。あの人はどういう家柄で、どんな職業で、どんな資格があって・・・。しかし、本当に見るべきなのは、その人の中にある神とのつながりの部分なのではないでしょうか。

   (5) ナザレの村は生活と信仰のコミュニティー(共同体)でした。自分たちの中心に神がいてくださることを人々は安息日の礼拝をとおして確認していました。そこには律法による秩序があり、その秩序からはずれた人は排除されました。一方、イエスは「アッバ(お父さん)」である神のもとで、すべての人が兄弟姉妹として生きる道を示しました。そして、実際に村のコミュニティーから排除されているような人々と関わっていきました。病気のために汚れているとされた人々、悪霊に取りつかれていると言われて見捨てられていた人々、職業によって罪びとのレッテルを貼られてしまっていた人々・・・。イエスはこの人々も神の子であることを、言葉と行動をとおして伝えていきました。ここにも、イエスのメッセージと活動がナザレの人々に受け入れられなかった理由があったでしょう。
 イエスはアッバのもとでの新しいコミュニティーを作り出していきます。イエスから始まるこの新しいコミュニティーは、地縁・血縁を超え、社会的な立場の違いを超え、男女の壁を超え、民族の壁を超えて共に生きるコミュニティーなのです。わたしたちのコミュニティーはそうなっているでしょうか?

   (6) ナザレの人の「不信仰」とは、イエスを「預言者」として受け入れないこと、つまり、イエスによってもたらされた神の国のメッセージを受け入れないということでした。
 5-6節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」というのは不思議な言葉に聞こえるかもしれません。イエスが人をいやす力を持っているならば、相手の信仰とは無関係にイエスはその人々をいやすことができたはずではないでしょうか。しかし、ここでは、イエスの行なう奇跡は相手の信仰に左右されるというのです。先週の箇所の「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」でも、「いやし」における信仰(信頼)の役割が重視されていました。福音書の中で「信じること」とは、「何かの信仰箇条に同意する」ということではなく、「神に信頼して、自分を委ねていくこと」です。そしてそれは神の救いを受け取るために、必要不可欠な人間の態度なのです。

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コメント

なるほど、答えをどうも
私は完全に救われない派に属しているようだ
救われたい人は、今以上に信じた方がいいですよ、私に惑わされる事なく
私は救われなくていいです
キリストの、身体が病んでいる(精神が病んでいる)=病気の霊(悪霊)に取りつかれたせいとか、「許せない事も許せ、じゃなきゃ救われない」とか言うのも、人は罪人(罪の奴隷)神はそれを救うとかの自作自演の教えも嫌いなので
神が大嫌いなのでね

ウリエルさんに惑わされる人はあまりいないんじゃないかな。何か別の宗教の人ですか?救いということを曲解しているようですが、当時、社会から見捨てられ、あるいは存在しない者とされた人達にはらわたがちぎれる思いをし、その人達に「あなたはかけがえのない大切なひとだ」と思わず駆け寄ってしまうーそんな真心を、笑うことはできないと思います。

ウリエルさん、こんにちは。初めて書かせていただきます。今日(6/27)の西千葉での司教さんのミサの説教の中で、あなたのお話が出てきました。お話の中に”このブログを永く書いていてコメントらしきものはウリエルさんが初めて。でも内容的には決して納得できませんので、コメントを消去しようかと思いましたが、ウリエルさんの強い祈りのようなものが感じられ、消すことはしませんでした”とミサの中で言われました。
私はウリエルさんに感謝したいことがあります。それは今まで私はブログを読んだこともコメントを書いたこともありません。しかも司教さんのブログを見る事ができたことは、ウリエルさんのおかげです。有難うございました。

>救われたい人は、今以上に信じた方がいいです>よ、私に惑わされる事なく
と、おっしゃるようにウリエルさんも人の幸福を望んでいらっしゃる。
ただ、他の人とは手段が異なるだけのようですが。

今朝7時の礼拝に行ってきました。
信仰の大切さを教えられました。

今朝7時の礼拝に行ってきました。
信仰の大切さを教わりました。

「大工」の仕事って、山から掘り起こしてきた石の塊を切り分ける仕事で、生命の危険を伴っていた、と本田神父の指摘がありますね。差別されていた職業だということですから、故郷では排他性をぬぐいさることができなかったのでしょうか。暖かく迎えてくれる故郷ではないというのは、とてもさびしいですね。

私たちは学歴・肩書きで人を判断してはいないか?と考えさせられる箇所ですね。
ただ「本当に小さな人」「本当に小さくされた人」「自ら小さくなっている人」「小さくないのに小さいぞとアピールする人」などの違いを見極められる知恵が必要だと思います。

「小さくされた人」がお好きな本田神父は「解放の神学」に基づく「マルキシズム的労働階級闘争」的な視点で聖書を歪曲して解釈されますので、異端紙一重ですね。食パンで御ミサをされますし、惑わされないようにあまり関わらない方が良いかと・・・。

貧しいか裕福か、小さいか大きいか、善か悪か、白か黒か、多いか少ないか、それは全て自分基準な気がする
自分基準(或いは神基準?)で考える事が正当なら、それを悪とし、それに勝る善をすればいいだけの話
論ずるは容易いが実行に移すのは難しい
私に言われたくはないだろうけどね
頑張ってね

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