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2009年6月18日 (木)

年間第13主日 (2009/6/28 マルコ5章21-43節)

教会暦と聖書の流れ

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 先週の福音でガリラヤ湖の嵐を静めた(マルコ4章35-41節)後、イエスは向こう岸の異邦人(ゲラサ人)の地に渡り、そこで悪霊に取りつかれた人をいやしました(5章1-20節)。そこから再びユダヤ人の地に戻って来てきょうの箇所になります。 きょうの福音では、2つのいやしの物語が伝えられています。おそらくここでは「信じる」というテーマが重要だと言えるでしょう。この「信じる」というテーマは、先週の箇所(5章40節)にも来週の箇所(6章6節)にもはっきりと表れています。

福音のヒント

0702    (1) きょうの箇所は21-24節と35-43節のヤイロの娘の話の間に、25-34節の出血の止まらない女の話が挟まれる、サンドウィッチのような形になっています。
 まず、25-34節について見てみましょう。「出血の止まらない女」と言われていますが、これは女性特有の病気の症状のようです。彼女は肉体的にも経済的にも苦しんでいましたが、それだけではない苦しみもありました。レビ記15章25-27節にこういう規定があります。
 「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は(けが)れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている
 彼女は、重い皮膚病の人と同じように「汚れた者」というレッテルを貼られ、神から断ち切られていましたが、同時に汚れを移さないよう、人に近づくことも禁じられていて、人との交わりからも断ち切られていました。

   (2) 人に近づくことが許されなかったので、彼女は「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」のです。このような行為は、いやしの力を盗むことで許されないと考えられていたようです。彼女は「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。イエスも「自分の内から力が出て行ったことに気づ」きます。イエスと彼女は、二人の間で起こったことを体で感じたようです。そしてイエスは彼女を見つけ出そうとします。なぜでしょうか?「ただ病いがいやされたということで終わるのではなく、イエスに出会い、イエスと人格的な交わりを持つことが本当の信仰だからだ」という説明もあります。もちろんそうとも言えます。しかし、もっと単純に、「いやしを盗んだ」彼女の後ろめたさと恐れを取り除くためだったと言ってもよいかもしれません。イエスは彼女の態度を「信仰」として評価し、彼女の心に「安心」を与えていくのです。

   (3) 「あなたの信仰があなたを救った」(34節)は福音書の中で何度か繰り返される言葉です(マルコ10章52節、ルカ7章50節、17章19節など)。これは不思議な言葉です。「神が救った」あるいは「イエスが救った」というのが本当ではないでしょうか。
 「信仰」と訳された言葉はギリシア語では「ピスティスpistis」で、36節の「信じる(ピステウオーpisteuo)」の名詞形です。「信じること、信頼」と訳すこともできます。福音書の中で語られる「ピスティス」とは、頭の中で「神がいる」とか「イエスはキリストである」と考えている、ということではありません。あきらめや不安を乗り越え、神に信頼を置いて生きるという態度なのです。きょうの出血症の女性のように、この人なら自分を救ってくれると信じて、必死の思いでイエスに向かって行く姿勢そのものが「ピスティス」だと言ったらよいでしょう。すべての人の父であり、すべての人に救いの手を差し伸べておられる神に対して、イエスご自身が深い信頼を寄せていました。イエスは同じ信頼を人々の中に呼び覚まします。神の救いを受け取るためにはこの「ピスティス」が不可欠なので(マルコ6章6節、来週の福音参照)、イエスは「ピスティス」を最大限に評価したのでしょう。

   (4) イエスがこの女性に関わっている間に、ヤイロの娘が死んだという知らせが届きます。出血病の女性の話は、ヤイロの話の展開に大きな意味を持っています。ヤイロや他の人々は、娘が生きているうちにイエスを呼べば助かる、しかし、死んでしまってはいくらイエスが来てくれてももう遅いと考えていたはずです。イエスはそのヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と言います。出血症の女性の話は、ヤイロの娘の話に「信じる」というテーマを導き出す役割を持っているのです。このサンドウィッチのような物語の展開はただ単に時間的にそのように起こったというだけでなく、テーマの関連があるからこそ、このような形で伝えられてきた、と言えるでしょう。

   (5) 「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ」は最初の弟子で、特にイエスに近い弟子だったようです。彼らだけを連れて行ったこと、また「死んだのではない。眠っているのだ」というイエスの言葉は、どちらも奇跡を隠そうとしているのだと言えるでしょう。イエスはこの奇跡を人々に見せびらかすためにしたのではありません(なお、死は眠りに過ぎないという考えは、イエスの復活を知った初代教会の人々の確信でもあります)。
 「タリタ・クム」はアラム語です。新約聖書は1世紀の地中海周辺地域の共通語であったギリシア語で書かれましたが、イエスが話したアラム語がそのまま残されている箇所がいくつかあります(マルコ7章34節、15章34節参照)。これらの言葉がアラム語のまま伝えられたのは、イエスの声の響きが聞いている人の耳によほど印象的に残ったということではないでしょうか。言葉には「ものごとを説明する」という働きがありますが、もっと根源的には「相手に働きかけ、相手を変える」働きがあります。創世記1章3節の「光あれ」のような力強い言葉として、イエスの言葉は人々の耳に(また、死んでしまったこの少女の耳にも)響いたのでしょう。ここには、必ずこの人にわたしの声が届くはずだ、というイエスの深い信頼(ピスティス)を感じとることができるでしょう。イエスは同じように、きょうもわたしたちにやさしく力強い声で語りかけてくださっているはずです。

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コメント

ウリエルさんへ
あなたのコメントに興味がありますが、なるべく福音のヒントのコメントを書いてもらいたいです。論点がずれているみたいなので。
あと、あなたの今まで書いているコメントを今度の説教の素材として利用しますね。

それでは人を信頼する事も、神をも信頼する事さえ難しい、或は出来ない闇に落ち込む人達は救われないと言う事ですか?
人が人を見捨てるのが容易いように
神が人を見捨てる事も容易いんでしょうね
だからこそ、この現実でしょうね
善悪を決めるのが簡単に出来るように
救う救われないも簡単で、簡単な世界だ

ウリエルさん
あなたはこの場所に何を求めて書き込んでいますか?
ある意味、救いを求めているように思ってみていました。(助けてもらいたい対象がこの場所を見に来ている人なのか、作者さんなのか、神様なのかはイマイチわからないのですが)
だからその悲痛な書き込みもよいかと思っていました。
でも一つ書きたいことがあります。
神を信じることは個人の信仰です。
あなたが今信じていないのもあなたの信仰です。
キリスト教では神はぜったい人を見捨てません。
わたしはそれを信じています。
そして私だけでなく、他の人も
あなたのために、神様からの平和があるように祈っている人がいます。
カトリックの人はそういう人が多いと思います。
言葉や姿が見えなくても祈ってくれています。
神様を求めているのならば、この週のヒントにあるように「ピスティス」、
あなたほど強く心の平安、救いを求めているのならば、わたしたちの信じている神様は助けてくれるはずです。
それがわたしたちの信仰です。
お祈りしています。

ウリエルさん、福音はよい知らせです。希望を受け取ることはないのでしょうか?否定するために読んでコメントしているように見えます。もしそうなら、何のためか聞きたいです。

出血病の女性は、12年もの間、汚れた者として、差別されながらその病と闘っていました。しかし神を信ぜず、医者を頼りに全財産を使い果たしました。その女性がイエスを信じたのです。力が出ていったイエスは、大群集を見まわしました。おそれをいだきながら女性は名乗りでたのですが、イエスは「娘よ」と優しく声をかけます。信仰が娘を救ったのです。今日のミサの説教では、信仰の意味を気づかせていただきました。ウリエルさん、“信仰”を持つことも決して捨てたものじゃないですよ。

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