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2009年6月12日 (金)

年間第12主日 (2009/6/21 マルコ4章35-41節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 四旬節~復活節という長い期間を終え、三位一体の主日とキリストの聖体の祭日を祝った後、教会の暦は再び年間主日の流れに戻ります。年間主日のミサの福音のテーマは、イエスの活動の様子を順を追って思い起こすことです。今年はマルコ福音書を通してイエスの活動の跡をたどっていきます。マルコ4章1節に「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」とあり、そこからイエスはさまざまなたとえを用いて神の国について語りました。きょうの箇所の冒頭にある「その日の夕方になって」は、この場面からつながっているようです。

福音のヒント

0625    (1) 「向こう岸」はマルコ5章1節を見ると「ゲラサ人の地方」でした。ゲラサはガリラヤ湖東南のデカポリス地方の地名ですが、岸からはかなり遠いので少し不自然な感じがします。マルコは、デカポリス地方の中心であった「ゲラサ」という町の名を挙げて、その地方全体を指しているのでしょうか。「デカポリス」とはギリシア語で「10の町」の意味です。そこはユダヤ人から見れば異邦人の世界でした。イエスが異邦人の土地に向かおうとしたのは、異邦人にも神の国の福音を告げるためだったと考えてよいでしょう。「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスご自身は、神のみ心に従い、自分のすべきことを自覚していますが、弟子たちはそうではなかったようです。38節の「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という弟子たちの叫びは、「本当は行きたくないのに先生が言うから船出した、その結果がこんなありさまだ」という不平のようにも聞こえます。

   (2) ガリラヤ湖は、大きさとしては茨城県の霞ヶ浦よりやや小さい湖です。すり鉢状の地形になっていて、突然嵐が起こることがあったようです。「艫(とも)」は船の一番後ろの部分です。イエスが眠っている姿は、恐怖にうろたえている弟子たちの姿と対照的です。イエスが「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」というのは悪霊に対する態度とよく似ています。マルコ1章25節では、イエスが悪霊に向かって「『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになる」という表現がありました。海や湖は人にとって危険に満ちた場所で、しばしば悪霊の住みかとも考えられていたようです。表現から見ると、きょうの話は「悪霊を追い出す」話と似たものがありますが、全体として見れば、いやしの奇跡というよりも、やはり自然現象に働きかけた奇跡だと言えるでしょう。

   (3) このような奇跡の話を素直に信じられるでしょうか? 信じられるという人もいれば、とても信じられないという人もいるでしょう。もちろん今となってはそこで実際に何が起こったかということは確かめようもありません。ただし、このような話を初代教会の人が考え出した単なる作り話だと片付けることはできません。弟子たちはイエスと一緒にいたときに、何かしらこのような不思議な体験をした、それが語り伝えられ、今の福音書のような形で書き記されたのだ、と考えるのが自然でしょう。もちろん実際には、ガリラヤ湖であるとき急に嵐にあい、なぜかその嵐が急に止んだというだけだったのかもしれません。しかし、そこにいた弟子たちはその出来事をとおしてイエスをまったく特別な、神からの力を持った方と見るようになっていったのです。このような弟子たちの体験と共通するものは、わたしたちの体験の中にもあるかもしれません。

   (4) イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)と言われますが、ここでは「怖がること」と「信じること」が対比されています。「怖がること」は必ずしも悪いことではないはずです。実際にわたしたちの回りにはいろいろな危険があるのですから、恐怖心や警戒心を持たなければ人は生きていけないはずです。ただ、問題は「恐怖」にとらわれて、わたしたちが何もできなくなってしまうことです。危険は確かにある、しかし、それでも本当にすべきことをしていくことができる、それが「神に信頼する」ことだと言ったらよいでしょう。信頼とは、恐怖心や不安を乗り越える力なのです。
 40節の「怖がる」と41節の「恐れ」は違います。「恐れ」には「畏(おそ)れかしこむ」の意味もあります。ギリシア語では「恐れ」も「畏れ」も「フォボスphobos」で区別がありません。「恐れ(畏れ)」は不信仰を意味しません。それは神の存在と圧倒的な力に接したときの人間の当然の態度だと言ってもよいでしょう。
 「いったい、この方はどなたなのだろう」という疑問でこの話は終わっています。マルコはここで、答えを出しません。この問いへの一つの答えは8章にあります。その時まで、イエスと共にいて、イエスのなさることを見てきた弟子のペトロが、「あなたはメシア(キリスト)です」(8章29節)という信仰告白をすることになります。ただ、きょうの箇所では、マルコはイエスとは誰かということの答えを出すよりも、イエスの姿をしっかり見つめ、イエスの素晴らしさを感じ取るよう、読者に促しているのではないでしょうか。

  (5) 初代教会の中で、このような出来事はどんなときに思い出されたのでしょうか。教会の活動がうまく進まないとき、嵐の中の舟のように、逆風のためにこぎ悩み、舟が沈みそうに感じるとき、しかも、イエスがまるで「眠っておられ」るかのように、なんの助けも感じられないときだったのではないでしょうか。その中でこの出来事を思い出し、イエスへの信頼を取り戻し、困難を乗り越えることができた、そういう体験が初代教会の中には何度も何度もあったでしょう。わたしたちの中にもそういう体験があるでしょうか? イエスが復活して今もわたしたちと共にいる、ということは、もしかしたら平穏な無風状態のときよりも、嵐のような困難の中でこそ、深く受け止めることができるのかもしれません。そのとき、わたしたちは「向こう岸に渡ろう」「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」というイエスの言葉を、わたしたち自身に向かって語られる、復活のイエスの力強い励ましの言葉として聞くことができるのではないでしょうか。

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コメント

偶然と考えるのも、必然と考えるのも、考えは人によって違う
自然や不自然の区別をおくのは間違いだと私は思うが、それは私の考えなので
あなたの考えはそれが真実なのでしょう
それと、これも私の考えだが、力強い励ましは時としてプレッシャーになるもの
(団結している、或はこれから団結するであろう)集団に呼び掛けるものならば、人はその言葉の重さを分割して貰うので、振りかかるプレッシャーは軽度のものだ
しかし、それが(弱っている)個人となると、その重さは測りしれないだろう
言葉は、その人その人に応じての使い分けも大事だと思う

人生の中で、何度も襲ってきた嵐…
事故や病気など周りの人に気付いてもらえるものもあれば、家族からも友人からも理解されなくて苦しむという嵐もありました。

それでも今私は生きている。その奇跡に気付かせていただいた日でした。

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