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2009年5月29日 (金)

三位一体の主日 (2009/6/7 マタイ28章16-20節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、その次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返りながら、父と子と聖霊である神の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。B年の福音朗読は、マタイ福音書の結びの箇所です。

福音のヒント

0611    (1) 弟子たちは、イエスの墓で告げられていたとおり(28章7,10節)、ガリラヤでイエスに会います。「山」はマタイ福音書の中で、特別に神との出会いの場、神の啓示の場です(5章1節、17章1節など)。17節に「しかし、疑う者もいた」という訳がありますが、直訳では「しかし、彼らは疑った」であり、11人全員が「ひれ伏しながらも疑った」と受け取ることができます。ここで疑いを克服するのは何か目に見えるしるしではなく、18-20節のイエスの言葉です。18節の「権能」は「権威」とも訳されますが、日本語の言葉としてはあまりいい響きではないでしょう。内容としては「父である神がイエスに、すべてのことをゆだねた」と受け取ればよいでしょう。

   (2) 19節のイエスの命令には4つの動詞が使われています。「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」です(「弟子にする」も「洗礼を授ける」もギリシア語ではそれぞれが1つの動詞です)。このうち原文で命令法が使われているのは「弟子にする」だけです。その他は分詞の形なので、形の上から見て、この命令の中心は「弟子にする」ことだと言えます。「行く」のは「弟子にする」ためですし、「洗礼を授ける」と「教える」は「弟子にする」ことの具体的な内容です。マタイ福音書でのイエスの活動は、ガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしたことから始まりました(4章18-22節)。そしてすぐに、山上の説教で弟子たちの生き方を教えました(5-7章)。この福音書全体をとおしてのイエスの活動を「弟子作り」だと言ってもよいでしょう。そして、この「弟子作り」というイエスの使命が、ここからイエスの弟子たちに受け継がれていくのです。もちろん、弟子たちの使命は自分たちの弟子を作ることではなく、「わたし(イエス)の弟子」を作ることです。

   (3) 「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」で、本来の意味は「(水に)浸す、沈める」です。「名によって」の「名」は単なる呼び名というよりも、そのものの本質を表すものです。「~によって」は「~の中に」という前置詞が使われています。
 「父と子と聖霊」という言い方は聖書の中でこの箇所だけにあります。ここにはマタイのいた教会での洗礼式の式文が反映しているようですが、ただ単に「父と子と聖霊という名を言いながら洗礼式を行なう」ということよりも、この洗礼が、「父と子と聖霊という神のいのちの中にその人を沈める」ことなのだということが大切です。

   (4) マタイ福音書の結びに当たる「共にいる」(20節)という約束は、この福音書全体の結論とも言える言葉です。すでに誕生前からこのように約束されていました。
 「『見よ、乙女(おとめ)が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1章23節)
 イエスの生涯と活動全体が「神がわたしたちと共におられること」を表すものでした。そして、いまやそれは「復活して神と共に永遠に生きる方・キリストが共にいてくださる」という約束になっているのです。
 「いつもあなたがたと共にいる」は力強い約束です。わたしたちはそれをどんなふうに感じることができるでしょうか。自分のうちにイエスがいて、内面で自分を支え導いてくださると感じる人もいるかもしれません。また、イエスが自分の人生の歩みに寄り添い、目に見えないがいつも共に歩んでくださると感じる人もいるでしょう。わたしたち一人ひとりにとっての「共にいてくださるキリスト」のイメージを分かち合えるとよいでしょう。

   (5) マタイ福音書にあるイエスの言葉では、次の3つの箇所がヒントになるでしょう。
18章20節 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
 イエスは信じる者の集いの中にいてくださるという約束ですが、大きな組織としての教会というよりも、共に祈る小さな集いを思い浮かべたらよいのではないでしょうか。信仰の道を一緒に歩んでいる仲間とのつながりの中にイエスが共にいることが感じられるという体験は、わたしたちの中にもきっとあるはずです。
26章26-27節 「取って食べなさい。これはわたしの体である。・・・皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 教会が集まって賛美と感謝をささげ、パンとぶどう酒を用いてイエスの愛を記念するとき、キリストは共にいてくださいます。この「共にいてくださるキリスト」は奉仕者の手をとおして、病気や高齢で教会に来られない人にも届けられます。聖体はいつも、わたしたちがキリストに結ばれた者、「キリストの体」である教会共同体のメンバーであることを思い起こさせてくれます。多くの人が、特に苦しみや困難の中で、聖体のイエスによって支えられたという経験を持っているでしょう。
25章40節 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 わたしたちが日々出会う人、特に苦しみの中にあり、助けを必要としている人をとおして、今も生きておられるキリストに出会う、このような体験もわたしたちの中にあるのではないでしょうか。それぞれの体験を分かち合ってみましょう。

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