主の昇天 (2009/5/24 マルコ16章15-20節)
教会暦と聖書の流れ |
使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました(1章3-11節、きょうの第一朗読)。本来、主の昇天の祭日は復活祭から40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われます。きょうの箇所はマルコ福音書の結びですが、写本によってはこの部分がないものもあり、後の時代の人の付加した部分だと考えられます(マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたようです。B年復活の主日の「福音のヒント」参照)。ここにはイエスの死後起こったことがコンパクトにまとめられています。すなわち、「弟子たちへの出現」「派遣命令」「イエスの昇天」「イエスが弟子たちとともにいつづけること」です。
福音のヒント
(1) この箇所の前、9-11節でマグダラのマリアへの出現(ヨハネ20章11-18節参照)が、12-13節では他の二人の弟子への出現(ルカ24章13-35節)が語られていますが、弟子たちはその人々の言葉を聞いてもイエスの復活を信じなかったと言われています。そしてここでは「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。これらの言葉は昔の弟子たちを批判するために伝えられているのではなく、復活を信じることの難しさを語りながら、それでも信じるように読者を励ます意味があるのではないでしょうか。この箇所では、イエスの言葉が弟子たちを信じるものに変えていきます。わたしたちもきょう、同じイエスの言葉に耳を傾けようとしています。
(2) 15節からが復活したイエスの言葉、いわゆる派遣命令です。この派遣命令の特徴は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というように範囲が非常に広いことです。生前のイエスによる弟子たちの派遣が限定的だったのと対照的です(マルコ6章7-13節参照)。弟子たちの使命は「福音を告げること」ですが、これはマルコ福音書で言えば、これまでイエスがなさってきたことそのものです。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(1章14-15節)。告げるべき福音の内容はキリスト教のさまざまな教えというよりも、「神の国の到来」でした(その意味で「宣教」ではなく「告知」という言葉をここでは使います)。「神の国」のメッセージは、別な言葉で言えば、「父(アッバ)である神は、すべての人を例外なく子どもとして愛してくださっている」というメッセージだったと言えるでしょう。「福音告知」とは「神は愛であることを伝えること」だと言ってもいいはずです。そう考えれば、決して言葉だけで伝わるものでないことも明らかでしょう。
(3) 16節の「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」は信仰か不信仰かの決断を迫る言葉です。洗礼を受けていない人が大多数である日本のような国では、多くの人がこのような言葉に戸惑いを感じるかもしれません。
ここで、信じるか信じないかの前提に「福音が告げられている」ことがあるということは大切です。弟子たちが告げる福音(神が愛であること)は言葉だけではなく、弟子たちの生き方のすべてをとおして伝えられるはずのことです。そういう福音告知が前提にあって、福音が告げられた人に決断が問われているのです。だとすれば、わたしたちが教会外の人をどう見るかではなく、まず第一にわたしたち自身が生き方と言葉のすべてをもってこの福音を告げているか、が問われるのではないでしょうか。
(4) 信じるものに伴うしるしは、17節では「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」ことです。ここで「言葉」と訳されているのはギリシア語の「グロッサglossa」です。本来「舌」を意味する言葉ですが、英語のtongue(タング)のように「言語」の意味もあります。Ⅰコリント12、14章で「異言(いげん)」と訳されるのもこの言葉ですが、きょうの箇所では、何かしら特別な、不思議な言葉というよりも「神から与えられる言葉のたまもの(カリスマ)全体」と考えればよいでしょう。
聖霊降臨の日に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章3-4節)とありますが、この「舌」も「言葉」も「グロッサ」です。その日、使徒たちが語った言葉は、民族や言語の壁を越えて人間同士のコミュニケーションを可能にする言葉でした。悪霊が人を神から引き離し、人と人との関係を破壊する力だとすれば、逆に聖霊は神と人、人と人とを結ぶ力です。ほんとうにわたしたちの働きが神と人・人と人を結ぶものであれば、どれほど力強い「しるし」になるでしょうか。
18節の「蛇(へび)」は人間を害するもののシンボルです。その「蛇」や「毒」に打ち勝ち、病人をいやすというのがもう一つの「しるし」です。こんなことは今のわたしたちには不可能だと思われるかもしれません。しかし、福音書が伝えるイエスの「いやし」をどのように受け取るかによって、わたしたちの課題にもなるのではないでしょうか。イエスのいやしとは「病気によって神からも、他の人からも切り離されていた人を、神との交わり、人との交わりに連れ戻し、そこからその人自身が立ち上がることができるように助けること」と見ることもできるでしょう。だとすれば、今のわたしたちの中でもそのような「しるし」は起こりうるのではないでしょうか。
(5) 19節でイエスは天に上げられますが、20節では「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と語られ、イエスが遠くへ去っていったのではないことをはっきりと示しています。「天」とは時間空間を超えた神の領域です。ですからイエスは目に見える姿、手で触れることのできる形ではいなくなりますが、同時に目に見えない形で、弟子たちとともにいてくださるのです。これこそが復活の完成だと言えるでしょう。


神は愛ではないでしょ
愛なら支配もしないはずだし、愛なら脅迫もしませんよ
神は例外なく全ての人を愛していると言いながら、信じて洗礼した事によってのみ救いがあるなんて、例外なく全てをではないでしょ
信仰、不信仰を持ち出してる時点で全てを愛しているとは言えませんよ、愛とは言えませんよ神なんて
それから、戸惑うってより脅迫に聞こえましたね私には
投稿: ウリエル | 2009年5月15日 (金) 21時45分
とりあえず教会に通ってみて、質問されたらどうでしょう?
聖書は字面どおりに解釈してはいけないところも多いので。
投稿: れお | 2009年5月24日 (日) 19時26分