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2009年1月 6日 (火)

主の洗礼 (2009/1/11 マルコ1章7-11節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、そこには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いていると考えられているのです。
 同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から教会の暦は「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。

福音のヒント

0111   (1) マルコ福音書は、マタイやルカと違ってイエスの誕生や幼年時代の物語を伝えていません。マルコ1章1節は「神の子イエス・キリストの福音の初め」で、その後はすぐ洗礼者ヨハネの活動の紹介、そしてイエスの洗礼の場面と続いています。
 きょうの箇所の7-8節は待降節第2主日(B年)にも読まれた箇所です。「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」と言って、本来は「水に沈めること、浸すこと」を意味する言葉です。「聖霊で洗礼を・・・」(8節)の「霊」はギリシア語では「プネウマpneuma」と言い、これは「風」「息」を意味する言葉です。マタイやルカでは「聖霊と火による洗礼」となっていますが、これは本来、「風(プネウマ)に飛ばされ火で焼かれるもみ殻」のイメージだったようです(A年待降節第2主日の福音のヒント参照)。洗礼者ヨハネが予想していた「来るべき方」は、この「風と火による裁きの中に人々を沈める方」だったのでしょう。
 しかしキリスト教は、実際に到来したイエスの姿に合わせて洗礼者ヨハネの言葉を解釈し直しました。「聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸す」というイメージです。古代の人々は目に見えない大きな力を感じたときそれを「霊=プネウマ」と呼び、それが「神からの力」であれば「聖霊」と表現したのです。聖霊の基本的な働きは、神と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単なる回心のしるし(水による洗礼)ではなく、「人を神に結びつけ、神の子とし、神のいのちにあずからせる」ものだということになります。

   (2) 9-11節でイエスが洗礼を受けたという事実よりも大切なのは、その後に起こった3つのことです。 (A)天が裂け、(B)聖霊がイエスに降り、(C)「わたしの愛する子」という声が聞こえた
 (A)の「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。イザヤ63章19節には、「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名(みな)で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降(くだ)ってください。御前(みまえ)に山々が揺れ動くように」という言葉があります。
 (B)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるということを表すイメージです。
 (B)と(C)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊が降るのを見るのはイエスご自身であり、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけています。一方、ルカでは、聖霊が「目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と客観的な描写のようになっていて、声はマルコと同じく「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(ルカ3章21-22節)。マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声のほうは「これは・・・」と三人称ですので周りの人にも聞こえたような印象があります。この出来事は、洗礼者ヨハネはじめその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなのです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を自覚したという面の両方があると考えたらよいでしょう。

   (3) 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉の背景には、イザヤ42章1節以下があると言われています。新共同訳ではこうなっています。
 「1 見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。3 傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」
 「主の僕の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシア語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味することばです。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味することばですが、イメージとしてはつながっています。つまり、この「愛する子」ということばには、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。

   (4) 「あなたはわたしの愛する子」この言葉は、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られている言葉だと言えます。わたしたち自身の洗礼はそのことを意味しています。
 ところで、「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。ペンテコステは「五旬祭」の意味ですが、イエスの復活後50日目のペンテコステの日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音を告げる活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に積極的に参加することを表すものです。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣・使命)」と結びついています(新約では、ルカ1章30-35節、ヨハネ20章21-22節などを参照)。弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられるのです。これこそが堅信の秘跡の中心テーマなのです。
 「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。

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