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2009年1月 9日 (金)

年間第2主日 (2009/1/18 ヨハネ1章35-42節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 年間第2主日には毎年、ヨハネ福音書からイエスの活動の最初のころのエピソードが読まれます。年間主日のミサの福音は3年周期で、マタイ・マルコ・ルカ福音書をもとにイエスの活動を思い起こし、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読むようになっています。ただ、活動の最初のこの部分だけは年間第2主日に読まれるのです。
 内容的には「イエスが姿を現し、人々がイエスの光に出会う」というものであって、「栄光の現れ」(「主の公現」の福音のヒント参照)という降誕節のテーマを引き継いでいます。

福音のヒント

0115    (1) ヨハネ福音書1章1-18節は一般的に「序文」と言われています。実際の物語は19節から始まりますが、29節、35節、43節に同じ「その翌日」ということばがあり、2章1節には「三日目に」ということばがあります。このように日付を追っていくのはこの部分だけですので、特別な意味がありそうです。1章19節の日を「1日目」を数えると、29節が「2日目」、35節からが「3日目」、43節からが「4日目」、2章1節の「三日目」は「4日目」から数えているので「6日目」ということになります。「6日間」は創世記第1章の天地創造を思い出させるのではないでしょうか。ヨハネ福音書は「新しい創造」とも言うべき、神のわざがここに始まったことを印象づけようとしているのでしょう。そのクライマックスは2章11節の「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」ということなのです。

   (2) 「神の小羊」という言葉にはいろいろなニュアンスが含まれています。1章29節では「世の罪を取り除く神の小羊」と言われました。ここで「取り除く」と訳されたギリシア語の「アイローairo」は「取る」の意味ですが、「取り去る」だけでなく、「取り上げる、負う」というような意味もあります。自分の身に人々の「罪をにない」、人々を「罪から解放した」というイエスの十字架の救いのわざを暗示するのが、「神の小羊」という言葉なのです。もちろん、この場面で洗礼者ヨハネが二人の弟子にこう言っても、聞いた人には何のことか分からなかったでしょう。この言葉の意味よりも、むしろここでは「この方だ、この方を見なさい」とヨハネが指し示していることが大切なのです。

   (3) ヨハネ福音書の中でのイエスの第一声は「何を求めているのか」というものです。「○○しなさい」でも「○○するな」でもなく、相手の求めていることに耳を傾け、それを受け取ろうとしてくださる言葉です。イエスはわたしたち一人一人にもまずそう問いかけてくださっているのではないでしょうか。
 これに対する二人の答えは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」というもので、質問に対する答えの形にはなっていません。「ラビ」はヘブライ語で教師に対する尊敬を表す呼び名です。38-39節にある3回の「泊まる」はギリシア語では「メノーmeno」という言葉が使ってありますが、この言葉はヨハネ福音書の中で大切な使われ方をしています。

   (4) 典型的なのはヨハネ15章です。「1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。ここで「~につながっている」と訳されているのは「メノー・エン」です(「エンen」は「~のうちに」という意味の前置詞)。これは15章9節以下では「~のうちにとどまる」と訳されます。「9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」つまり、「メノー」はヨハネ福音書の中で父とイエス、イエスとわたしたちの深い結びつきを表す特別な言葉だと言えます。だとすれば「どこに泊まっておられますか」は単に滞在先をたずねているだけでなく、「あなたはいったいどういう方か。神とどのような関係にあるか」という問いでもあるのです。また、この問いの中には「あなたのおられるところにわたしたちも行きたい。そして、あなたとともに時を過ごしたい」という意味も込められているのではないでしょうか。そう考えれば、この言葉は「何を求めているのか」とイエスから問いかけられたわたしたちの答えにもなりうると感じられるでしょう。
 イエスは「来なさい。そうすれば分かる」 (別訳では「来て、見なさい」)と言います。これもわたしたちに向けられた招きの言葉として受け取ることができるでしょう。

  (5) 福音書は直接イエスに出会った人たちが書いたものではなく、イエスに出会った人々の思い出が人から人へと語り継がれ、最終的に今の形で書き記されたと考えられます。ヨハネ福音書を最終的に書いたのは使徒ヨハネではないと考えられていますが、著者は使徒ヨハネから伝えられた古い伝承を用いていると考えることはできるでしょう。この箇所も、使徒ヨハネ自身のイエスとの最初の出会いの記憶に基づいているのでしょうか。
 「午後四時ごろのことである」という言葉は「その日は、イエスのもとに泊まった」の理由だと考えることもできますが、それだけでなく、夕方に近い午後の日差しの中でイエスと初めて出会った、その感動と強烈な印象を伝えている言葉なのかもしれません。それは何十年経っても昨日のことのように思い出せる印象的な出会いの時だったのでしょう。
 わたしたちにとっての「午後四時」と言えるような体験があるでしょうか。

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