年間第33主日(2008/11/16 マタイ25章14-30節)
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イエスは地上の活動の終わりに、エルサレムの東にあるオリーブ山の上で、エルサレムを見ながら弟子たちに向けて終末についての説教をしました(マタイ24-25章)。24章42節から「目を覚ましていなさい」というテーマがずっと展開されていますが、きょうの箇所は年間第32主日の「10人のおとめ」のたとえに続く箇所です。ここでも、いつか突然訪れる終わり(キリストの再臨)に向かって「目を覚ましている」とはどういうことか、最終的に神の目から見て何が良しとされるのか、ということがテーマになっています。
福音のヒント
(1) この「タラントン」のたとえは明らかに、世の終わりまでわたしたちがどう生きるべきかを問いかけています。ルカ福音書19章12-27節にある「ムナ」のたとえによく似ていますが、違う面もあります。「タラントン」のたとえでは、「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」が預けられましたが、「ムナ」のたとえでは「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し」とあり、だれもが同じように1ムナずつ預けられたことになっています。「ムナ」のたとえは、神が一人一人に同じものを与えてくださっているということを大切にしているのでしょう。それは一人一人に与えられた「いのち」でしょうか、「神からの愛」でしょうか。同じものを与えられてもどう応えるかは人によって異なり、そこが問われる、という、この「ムナ」のたとえのほうが「タラントン」のたとえよりも分かりやすいかもしれません。
(2) 「タラントン」のたとえで、人それぞれに与えられるものが違っていることを、どう考えたらよいのでしょうか。「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」というところを読んで「神様は不公平だ」と感じる人もいるかもしれません。しかし、1タラントンでも実は巨額と言えます。1タラントンは6000デナリにあたり、1デナリが1日の日当だと言われますから、1タラントンは、約20年分の賃金ということになります。また「1タラントン」は「1ムナ」の60倍であるということも考えれば、「タラントン」のたとえは、神から与えられたものの大きさ・豊かさを、極端にまで強調していると言えるでしょう。
現実に人が神様から委ねられたものを不公平だと感じることは確かにあります。人間的な目で見れば、一方にはあらゆる面で恵まれている人がいて、一方にはあらゆる面で恵まれない人がいる、と感じることは少なくありません。タラントンのたとえはこの人間的な見方と神の見方の違いを際立たせようとしているのではないでしょうか。
(3) 3番目の僕の態度「穴を掘り、主人の金を隠しておいた」というのは、当時の考えでは最も安全な財産の保管方法だったそうです。一方「銀行に入れておく」のはそれよりもリスクがありました。しかし、主人の望みは、安全にタラントンを保管することではなく、それを生かして用いることだったのです。
1タラントン預けられた僕は委ねられたものの大きさに気づかなかったようです。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」(24節)というのは、彼が「自分にはたった1タラントンしか預けられなかった」と感じていたことを表しているのでしょう。彼がそう感じたのは、主人との関係の中でどれほど大きなものを預けられているか、というのではなく、前の二人と比較して自分には少しだけだ、と考えてしまったからでしょう。しかし、人との比較は神の前ではどうでもよいのです。自分に預けられたタラントンをどう用いるか、それだけが神の目から見て大切なことなのです。
(4) この「タラントン」とは何を指しているのでしょうか?「10人のおとめ」のたとえと同じようにこの箇所の中にタラントンの説明はありません。一般的には「神から与えられ、預けられたもので、生かして用いることを求められているもの」と考えることができるでしょう。もしここで、「10人のおとめ」の「油」同様、続く31-46節をたとえ話の説明だと考えれば、やはり「タラントン」とは「愛」のことだと言えます。人と比較して自分のほうが愛されていない、と考えても何にもなりません。神から注がれた愛の大きさに気づいて、その神の愛にどう応えたか、それが問われるのです。
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」の「忠実」(ギリシア語の「ピストスpistos」)という言葉は本当は「お金に忠実」ではなく「主人に忠実」であることだと考えるべきでしょう。「少しのもの」というのは最終的に神から与えられる計り知れない恵みと比較しての表現です。そしてこの計り知れない多くの恵みは大きな金額というよりも「主人と一緒に喜ぶ」(直訳では「主人の喜びに入る」)ことだと言ってもいいのではないでしょうか。神の喜びがわたしたちの喜びとなる、その世界にわたしたちは招かれているのです。
(5) 主人の望みは、結果的にお金を増やすことなのでしょうか、それとも、結果はどうあれお金を用いること自体が求められているのでしょうか。たとえ話そのものでは、結果的にお金を増やしたことが評価されていますが、商売には必ずリスクが伴いますから、もしお金を損してしまったらどうなのか、という疑問も起こるでしょう。この箇所の中にその答えを求めるのは無理です。ただし、たとえ損をしても主人は褒めてくれる、と考える可能性はあるでしょう。なぜなら、イエスご自身の生き方、その受難と死は、ある意味で神から与えられたものを使い果たしてしまったような生き方だとも言えるからです。


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