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2008年5月 2日 (金)

聖霊降臨の主日 (2008/5/11 ヨハネ20章19-23節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 日本語では「聖霊降臨」ですが、ラテン語などヨーロッパ諸言語では元のギリシア語のまま「ペンテコステ」(「50番目」の意味)と呼ばれる日です。第一朗読の使徒言行録2章1-11節の記事に基づき、復活祭から50日目の日曜日に、使徒たちの上に聖霊が降(くだ)り、教会の活動が始まったことが祝われます。一方、福音の記事は復活節第二主日にも読まれた箇所で、復活の日の夕方、使徒たちに聖霊が与えられたことを伝えています。日付や場面は異なりますが、イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことが記念されるのです。ここでは、ヨハネ福音書と使徒言行録の両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きを味わうことにします。

福音のヒント

0511   (1) 福音の箇所全体については、復活節第二主日の「福音のヒント」を参考にしてください。今回は特に聖霊に注目します。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「プネウマ」とか「ルーアッハ」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼びました。
 聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです。なお「舌」のギリシア語は「グロッサglossa」で、これは6節の「言葉」と同じ語です。「炎のような舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物が、言葉の賜物であることを象徴しているのです。

  (2)  聖霊の働きは非常に広いものです。ヨハネの「息を吹きかけて」は創世記2章でアダムが創造された場面を思い起こさせます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神の働き・神とのつながり(聖霊)なしに人は生きることができないのです。詩編104編29-30節でもすべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われています。「御顔(みかお)を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面(おもて)を新たにされる」。この広さは大切です。「風(プネウマ)は思いのままに吹く」(ヨハネ3章8節)と言われるように、聖霊が働く範囲を人間が限定することはできません。聖霊は秘跡の中だけに働く、とか、教会の中だけに働く、とか、ましてわたしの中だけに働くとは誰も言えないのです。人が意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているということは大切なことです。しかし、人が特別に聖霊を意識するときがあります。聖書を見るとそれは2種類の体験に関係しているようです。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは、神と人・人と人とが結ばれるという体験です。   

  (3) 人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを痛感します。しかし、何とかこのミッションを果たせたとするならば、そこに不思議な仕方で神が助けてくださった、という実感があるはずです。それは自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。聖書の中でもこのような神の働きが「聖霊」と呼ばれています。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降ると表現されています(Ⅰサムエル16章13節、イザヤ61章1節参照)。新約聖書の中では、成人したイエスがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録2章のペンテコステの出来事でも、弟子たち(最後までイエスについていけなかった弱い弟子たち)が福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降るのです。ヨハネ20章で、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることも聖霊の授与と結ばれています。
 使命と聖霊との結びつきは、わたしたちの洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者・ゆるしの秘跡)のテーマでもあります。もちろん、これは秘跡だけでなく、人が神からのミッションを生きようとするとき、繰り返し体験することだと言えるでしょう。

  (4) 絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないようなことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。
 福音で命じられる「ゆるし」(神と人・人と人との関係回復)の実現は、聖霊の働きと切り離せません。また、使徒言行録2章のように、理解し合えないと思われていた異なる言語の人々の間に、相互理解が生まれるとするならば、それも聖霊という神の力によると言えるでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(30-31節)と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22-23節)と断言しています。   

  (5) 聖霊について人間が頭で理解しようとしても難しいと感じられるかもしれません。聖霊の働きとは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、頭で理解しづらいのは当然でしょう。大切なのは聖霊を頭で理解することよりも、わたしたちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他の人の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることなのです。

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