復活節第6主日 (2008/4/27 ヨハネ14章15-21節)
教会暦と聖書の流れ |
先週に引き続き、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉です。イエスは、自分は目に見える形ではもういなくなる、しかし、何かが残るということをさまざまな形で約束しますが、その中心は「聖霊の派遣」だと言えるでしょう(14章16-17節、14章26節、15章26-27節、16章7-15節)。イエスが世を去って父のもとに行き、弟子たちに残されるもの・与えられるのは何よりも聖霊なのです。復活節の流れの中では、聖霊降臨の主日を準備するような箇所だとも言えます。
福音のヒント
(1) この箇所の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という力強い約束です。この言葉を中心にして、16-17節に「聖霊」の約束があり、19-20節には「イエスがともにいる」という約束があります。以下のように図解してみると分かりやすいでしょう。
15節 愛する、掟を守る
16-17節 聖霊が一緒にいる、世は見ない・知らない、あなたがたは知っている
18節 あなたがたをみなしごにはしておかない
19-20節 世はわたしを見ない、あなたがたは見る・分かる。あなたがたのうちにいる
21節 掟を守る、愛する
このように見ると、「聖霊が一緒にいる」ということと「イエスがわたしたちのうちにいる」ということはほとんど同じように考えられていることになりなす。「聖霊」とはわたしたちのうちに働く神の力ですが、その聖霊の働きと、復活したイエスが目に見えない形でわたしたちのうちにおられ、わたしたちを支え導いてくださるということとは、わたしたちの体験の中でもほとんど区別できないことではないでしょうか。言葉や表現は確かに違いますが、言葉や表現よりも聖霊やイエスに支えられているからわたしたちは決して孤立無援ではないと実感することのほうが大切でしょう。
(2) この箇所で、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「慰め主」とも訳されますが、もともとは「そばに(パラpara)」「呼ばれた者」(呼ぶ=カレオーkaleo)の意味です。裁判の席では、そばにいて助けてくれる人という意味で「弁護者」の意味になります。もっと一般的には、「一緒にいて支えとなってくださる方」と言ったらよいでしょうか。ヨハネの第一の手紙2章1節にあるように、イエスご自身が第一の「パラクレートス」と考えられているので、ここで聖霊が「別の弁護者」と呼ばれているのでしょう。
(3) この箇所の中にある「世」と「あなたがた」のはっきりとした対比は、気になる人が多いかもしれません。ヨハネ福音書が書かれた1世紀末の状況では、キリスト者が完全にユダヤ教から排斥されたこととローマ帝国がキリスト教を激しく迫害していること、この2つの厳しい状況があり、「キリストを受け入れない世」と「イエスの弟子たち」の対立は不可避だと考えられたのでしょう。そこで、ここでも「世」は神とキリストに反するものだということが前提とされているのです。
一方、そんなヨハネ福音書だからこそ、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ということばに重みがあります。神は世が良いものだから愛するのではないのです。世は確かにどうしようもなく神から離れ、滅びへと向かっている世かもしれない。しかし「だから世はもうどうなってもかまわない」というのではなく、「だからこそ、神はひとり子イエスによって世に救いをもたらそうとされた」のだというのです。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(3章19節)。この光と闇のイメージも大切です。イエスは闇に閉ざされた世界に光として来られました。問題はこの光を受け取るか、光に背を向けて闇の中にとどまるかなのです。
わたしたちはこの世界をどのように感じているでしょうか。ある人はこの世界もなかなか良いものだと感じているかもしれません。逆に世界は絶望的に悪い(真っ暗闇だ)と感じている人もいるかもしれません。また、この世界には良い面も悪い面もある、と見ている人も多いでしょう。わたしたちの見方によって、「世」と「わたしたち」についてのヨハネ福音書の言葉の感じ方も変わります。たとえ大きな闇や問題を感じていても「だから世はダメだ」ではなく、「だからこそキリストの光が必要だ」と見ることができないでしょうか。
(4) 15、21節の「掟」という言葉はギリシア語では「エントレーentole」で、「命じる」という意味の動詞「エンテッロマイentellomai」から来ていて、「掟、命令」の意味があります。ところで、ヨハネ福音書で「新しい掟」(13章34節)、「わたしの掟」(15章12節)と呼ばれているのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということだけです。「愛」は心の中から自然に沸き起こるものであると考えると、「掟」や「命令」という言葉は馴染まないかもしれません。「掟を守る」と言っても、それは外面的に守るべき規則のようなものではないのです。むしろ、愛の掟を実現するのは、わたしたちのうちにおられるイエス(あるいは聖霊)の働きだと言ったらよいでしょう。イエスの愛がわたしたちの中にとどまり(あるいは、わたしたちがイエスの愛のうちにとどまり=ヨハネ15章9-10節)、聖霊がわたしたちのうちに働くとき、わたしたちの中に「互いに愛し合う」という生き方が実現し始めるのです。
わたしたちは自分の人生の中で、愛に反する現実をたくさん経験してきています。暴力、裏切り、無関心などなど。しかし、わたしたちの人生はそれらに覆い尽くされているわけではありません。愛の体験も必ずあるはずです。その愛の体験を深く掘り下げてみたとき、「聖霊が一緒にいてくださること」「イエスがわたしたちのうちにおられること」が見えてくるのではないでしょうか。


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