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2008年4月11日 (金)

復活節第5主日 (2008/4/20 ヨハネ14章1-12節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 ヨハネ福音書では、最後の晩さんというたった一回の食事の席での出来事に、13章から17章まで(福音書全体の約4分の1)があてられています。この席でイエスは、世に残していく弟子たちに向けて長い遺言のような説教をしました。その言葉の多くは、イエスは目に見える形ではもういなくなる。しかし、何かが残る、という「約束」です。もちろん1世紀末に書かれたヨハネ福音書は、それをただ将来起こることについての約束としてではなく、今すでに自分たちの中で実現している約束として伝えているのです。そして今のわたしたちも、このイエスの約束が(不完全かもしれませんが)自分たちの中で実現している、と感じたときに、イエスは今も生きている、と確信することができるのです。

福音のヒント

0420   (1) この箇所の直前でイエスは、ペトロがイエスを知らないと言うだろう、と予告されました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13章36節)とイエスが言われたことに動揺した弟子たちに向かって、イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と語りかけます。
 「神を信じる」「イエスを信じる」は、ここでは「神は存在すると思う」とか「イエスを神の子であると考えている」というレベルの話ではありません。「その方に信頼を置き、自分を委ねる」という意味での「信じる」です。なお、原文の形は「信じなさい(命令法)」とも「あなたがたは信じている(直説法)」ともとれます。「あなたがたは信じている、だから心を騒がせるな」と受け取るならば少し違った響きが感じられるかもしれません。いずれにせよ、神とイエスではないものを頼りにしている限り、わたしたちの不安や動揺はなくならないでしょう。

  (2) 「わたしは道である」とイエスは語ります。現代のわたしたちは、道は道路公団か何かが作るものと考えがちですが、本来の素朴な道は人が歩くことによってできるものでした。イエスは「どこそこに道があるから、その道を行きなさい」と言うのではありません。「わたしが道だ」というときの道は、イエスご自身が歩むことによってできる道だと言ったらよいのではないでしょうか。そして、このイエスの道は十字架の死で終わる道ではなく、死を通って神のもとに行く道なのです。ヘブライ人への手紙にこういう箇所があります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10章19-20節)。エルサレムの神殿には「聖所(至聖所)」があり、その前には垂れ幕がありました。そこには普通の人は誰も入ることができず、年に一度大祭司だけが入ることができたのです。ヘブライ書は、このような比喩(ひゆ)を用いて、イエスによってわたしたちが神に近づくことができるようになった、ということを示そうとしています。

  (3) 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)は、イエスへの信仰があるかないか、とか、洗礼を受けたか受けていないか、ということではないはずです。「道」は、動く歩道やエスカレーターではありません。信仰告白や秘跡によって自動的に神のもとに行くことはできません。イエスが命がけで切り開かれた道をわたしたちも歩んでいかなければならないのです。
 「真理」もそうです。ヨハネ福音書は、抽象的・哲学的な真理について語るのではなく、「確かなもの、頼りになるもの(ヘブライ語の「エメト=真理」の元の意味)」であるイエスご自身、そしてイエスにおいて現された神ご自身の姿が真理なのです。「真理を行う」(ヨハネ3章21節)という表現もありますが、この真理は頭で理解する真理ではなく、イエスが行った真理であり、わたしたちが行うように招かれている真理なのです。「命」もイエスご自身の生きた「命」のことであり、この命をわたしたちも生きることになるのです。

  (4) フィリポの言葉、「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(8節)はすべての人の心の深いところにある望みを表している言葉だと言えるでしょう。これに対するイエスの答え「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)は決定的な宣言です。
 ヨハネ福音書は13章1節で、イエスの受難の物語を次のように語り始めました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。ヨハネ福音書が受難のイエスの中に見ているものはこの極限までの愛です。この愛は、いつもイエスのうちにあり、そして十字架の死の時に完成されるような愛なのです。イエスは受難と死において「愛そのものである神」(Ⅰヨハネ4章8,16節参照)を完全に現す方となった、だから「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われるのではないでしょうか。

  (5) 「わたしを信じる者は、わたしが行う業(わざ)を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)は不思議な言葉です。わたしたちがイエスよりももっと大きな業を行うということは常識的には考えにくいことです。この文脈の中では、続いて「わたしが父のもとへ行くからである」と言われています。イエスが父のもとに行くことによって実現するのは、聖霊が弟子たちのところに来て、弟子たちとともにいてくださるということです(14章16-17節、14章26節、15章26-27節、16章7-15節参照)。イエスを「信じる者が行う業」とは、彼ら自身の働きというよりも、信者のうちに、信者を通して働く聖霊の働きだと言うことができるでしょう。そして、それは地上でイエスが行ってきたことよりももっと豊かな働きだと言ってよいのでしょう。この「もっと大きな業」については他にもいろいろな解釈があります。何が正しい解釈かということよりも、わたしたち自身の体験に照らし合わせて考えてみたら良いのでしょう。「信じる者は、イエスの行う業を行う」とわたしたちが感じるような体験があったとすれば、それはどんな体験でしょうか。

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