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2008年4月 4日 (金)

復活節第4主日 (2008/4/13 ヨハネ10章1-10節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 復活節第4~第6主日のミサの中では、ヨハネ福音書のイエスの言葉が読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとの関わりを味わうために選ばれた箇所です。第4主日は毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえですが、ここには良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています(ちなみにB年に11-18節、C年に27-30節が読まれます)。

福音のヒント

0413_2    (1) 福音書の「章」や「節」の区切りはあとの時代の人が付けたもので、あると確かに便利ですが、ときにはわたしたちの目を惑わすことがあるかもしれません。実は今日のヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わりから続いているのです。9章は四旬節第4主日に読まれた「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。「それを汚(けが)す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31章14節)と規定されていた安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその盲人の目に塗り、その人をいやしました。そのことは、言わばいのちがけの行為でした。このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10章11節)と宣言されるのです。
 ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白の言葉でもあるのです。

   (2) 当時のパレスチナの羊飼いは半遊牧生活であったと言われています。広い牧場に柵があり、門があって羊はずっとその中にいるというのではなかったのです。羊飼いは50~100頭の羊の群れを追い、草のあるところを求めて旅していきます。羊は弱い動物なので、1頭だけでいたらすぐに野獣に襲われて滅んでしまいます。羊飼いの役割は、羊を1つの群れに集め、狼や盗人から守り、草のあるところに導いていくことでした。夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごします。朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹の羊を見分けることができたと言われています。こういう当時の実際の羊飼いの姿が背景にあって、きょうのたとえが語られています。

   (3) 1-5節のたとえでは「聞く」と「知る」が大切な動詞です。「聞き分ける」(3節)は、原文ではただ「聞く」という言葉です。「聞く」にはただ単に耳で聞く、というだけでなく、「聞き分ける」という意味もありますし、「聞き従う」という意味もあります。 4-5節の「知っている」「知らない」の「知る」はただ単に知識として知るという意味ではなく、お互いの関わりを表すことばです。日本語でも「○○さんを知っていますか」という言い方は単に「その人について知識がありますか」という意味ではなく、「その人と会ったことがありますか。どんな交際がありますか」という意味でしょう。この箇所の後の14-15節では「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」という言葉があり、両者の深い交わりを表現しています。9章でいやされた盲人が、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と言った言葉も思い出されます。彼にとってイエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなく、自分を救ってくださったイエスとのつながりそのものの問題だったのです。
 イエスがわたしたちを知っていてくださるとはどういうことでしょうか。また、わたしたちがイエスを知っている、わたしたちがイエスの声を聞くとはどういうことでしょうか。「知る」「聞く」という言葉を手がかりに、わたしたちが復活して今も生きておられるイエスとどのような関わり・交わりを生きているか、見つめ直してみてはどうでしょう。

   (4) 7-9節でイエスはご自分を「羊の門」にたとえます。9節「わたしを通って入るものは救われる」この背景にあるのは、イエスを通って神の国に入る、父の家に入るというイメージなのでしょう。それに対して次の「門を出入りして牧草を見つける」は実際の羊の囲いのイメージなのでしょうか。実際には、餌となる牧草は囲いの外にあるからです。いずれにせよ、イエスが人々を豊かないのちに導く方であることが示されています。 10節の「命」はギリシャ語では「ゾエーzoe」です。続く11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉があり、こちらの「命」は「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」のほうは本来「息、生命の息」を表す言葉で、英語のpsychology(サイコロジー=心理学)の語源になった言葉ですが、ここでは「魂、精神」というよりも「自然の生命、肉体的な命」を指す言葉として用いられます。これに対して「ゾエー」は人を生かす根源的なエネルギーを表すと言ったらよいでしょうか。「永遠の命」というときはこの「ゾエー」が使われます。この2つの言葉はいつも厳密に区別されているわけではありません(10章15-18節ではイエスの肉体的な命と復活の命が同じ「プシュケー」という言葉で表現されています)。また、この2つの言葉は対立しているのでもありません。しかし、イエスは「羊のために命(プシュケー)を捨てる」方であり、同時に「羊が命(ゾエー)を豊かに受けるために」来られた方です。ただ肉体的な命というだけでない、もっと豊かな「いのち」の捉え方がここにはあります。今のわたしたちは「いのち」をどのように感じているでしょうか。

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