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2008年4月25日 (金)

主の昇天 (2008/5/4 マタイ28章16-20節)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられ(1章=きょうの第一朗読)、50日目の五旬祭(ペンテコステ)の日に聖霊が降りました(2章)。教会の暦はこれらの記事に基づいて復活節を祝っています(本来、主の昇天の祭日は40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。 A年の主の昇天では、マタイ福音書の結びの部分が読まれます。ここには、復活したイエスが神の子としての栄光・権威を受けたことと、目に見えないがいつもわたしたちとともにいてくださるという、復活節全体の二つの大きなテーマがはっきりと示されています。

福音のヒント

0504   (1) マタイ28章7,10節の空の墓の場面で天使から告げられていた、ガリラヤでのイエスと弟子たちの出会いがここで実現します。「山」は、特別にマタイ福音書にとって啓示の場でした(マタイ5章1節、17章1節など参照)。「疑う者もいた」(17節)という箇所は「弟子たちはひれ伏し、(同時に彼ら=同じ弟子たちは)疑った」とも受け取れます。マタイは、復活を信じることが難しいと感じる後の時代の人々に、「イエスの弟子たちにも疑う心があった。しかし、イエスの力強いことばを聞くことによって、信じる者に変えられていったのだ」と語りかけようとしているのかもしれません。

  (2) 19-20節には「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」という4つの動詞がありますが、このうち、原文ではっきりと命令法で書かれているのは「弟子にしなさい」という言葉だけです。「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」は別々のことではなく、中心にある「弟子にする」ということの具体的な内容が「洗礼を授ける」と「教える」ことなのです。マタイ福音書では4章18節のガリラヤ湖畔に始まるイエスの活動全体が「弟子作り」(人々を弟子として招き、弟子として育てる)と言うことができるでしょう。これまでイエスがしてきた「弟子作り」という活動がイエスの弟子に受け継がれ、同じ「ガリラヤ」から始まり「すべての民」に広がっていくのです。もちろん、イエスの弟子たちに求められるのは自分たちの弟子を作ることではなく「イエスの弟子」を作ることです。「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授ける」はマタイ福音書が書かれた時代(紀元80年頃)の教会で、実際の洗礼式で用いられていた表現だと考えられています。「洗礼を授ける」の元の意味は「(水に)浸す、沈める」です。この箇所は直訳では「父と子と聖霊の名の中に沈める」となります。「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの実体を表します。洗礼とは「父と子と聖霊という神のいのちの中に人を招き入れること」だと受け取ることができるでしょう。「父と子と聖霊」という表現は、イエスご自身の洗礼(マタイ3章16-17節。聖霊が降り、天から「わたしの愛する子」という声が聞こえた)をも思い出させます。キリスト者の洗礼は、イエスご自身の洗礼にあずかることだと言ってもよいのでしょう。

  (3) 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)は、マタイ1章23節を思い出させます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である」。イエスの誕生に関連してこのように述べたマタイは、最後に「共にいる」というイエスの力強い約束を伝えています。「神が(キリストが)共にいる」というテーマはマタイ福音書全体を貫くものだと言うことができます。今のわたしたちが「共にいてくださるイエス」をどのように感じることができるのか、マタイ福音書の中からヒントを探ってみましょう。

  (4) マタイ18章20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」 
 
キリストを信じる者同士の集いの中にキリストがいてくださる、と感じることができればどんなに素晴らしいことでしょうか。残念ながら、教会の中にも人間関係の問題やトラブルがあります。教会の中で人に傷つけられ、この集まりの中にキリストがいるなんて信じられない、と感じることもあるかもしれません。客観的に教会という組織を観察していても、そこにキリストを見いだすことは難しいかもしれないのです。組織としての教会よりも、人と人が本気でキリストに信頼して集まるということが大切なのでしょう。それは一緒に聖書を読んだり共に祈ったりする小さな集いかもしれません。わたしたち一人一人がイエスの名において人と出会おうとすることからすべては始まるのではないでしょうか。

  (5) マタイ25章40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 飢え渇き、病気であり、住むところも着るものもないような人々の中にキリストがいるという約束。マザーテレサをはじめ多くの人が、貧しい人との出会いの中でキリストとの出会いを実感するということを証言しています。それはわたしたちの身近な体験の中にもあることではないでしょうか。あるいはまた、わたしたち自身が自分の貧しさや苦しみの中にあって、兄弟であるキリストと深く結ばれていることを感じたという体験もあるのではないでしょうか。

  (6) マタイ26章26-28節「取って食べなさい。これはわたしの体である」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」 
 わたしたちが主の食卓を囲むとき、そこにキリストがいてくださるということは、わたしたちの教会の大きな宝です。聖体(エウカリスティア)は2000年にわたって、喜びの中でも苦しみの中でも、多くのキリスト信者を支え続けてきました。わたしたちはどんなとき、聖体のイエスを親しく感じ、聖体に支えられ、励まされてきたでしょうか。

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コメント

毎週木曜日に聖書の勉強会に行っています。
「福音のヒント」はここからしか、引用出来ないのでしょうか?
書籍などありましたら教えてください。
分かち合い って難しいですよね、 どこまで話していいのか考えるときもあります。少しオブラートに包んだような話の内容になっていたのでは、
真に分かち合いは出来ないと思うのです。
三笠教会で勉強してます。

中島さま、コメントありがとうございます。
そのうち本にするかもしれませんが、
今のところ、このサイトだけです。
インターネットを利用していない方のためには
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