復活節第3主日 (2008/4/6 ルカ24章13-35節)
教会暦と聖書の流れ |
きょうの箇所も「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語です。先週(復活節第2主日)のヨハネ20章同様、この箇所も2000年前の出来事というだけでなく、「生きておられる」(ルカ24章23節)イエスと今のわたしたちとの出会いの物語として読むことができるでしょう。ミサや聖餐(せいさん)式との関連もよく指摘されています。聖書の言葉を聞き、パンを裂く集いの中にいつも復活したイエスが共にいてくださるということを味わうために、最適の箇所と言えるのではないでしょうか。
福音のヒント
(1) 失意のうちに暗い顔をして歩んでいるとき、気づかないけれどイエスがともにいてくださる。もちろん、苦しみや悲しみのどん底にいるときにはなかなかそのように感じられないでしょう。しかし、後になってから「ああ、やっぱりあの時イエスは一緒にいてくれたのだ」と気づくことがあります。
わたしたちの中にもそういう経験があるでしょうか。
(2) 「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24章25-27節)
「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体・・・」は旧約聖書全体がメシアの苦しみと栄光について述べている、ということですが、ルカでは特にイザヤ52章13節~53章12節の主のしもべの歌のことが考えられていると言えるかもしれません。ルカが福音書の続編として書いた使徒言行録8章で、フィリポがエチオピア人の宦官(かんがん)から「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)と問いかけられたのはまさにこの箇所についてだったからです。
「見よ、わたしの僕(しもべ)は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(イザヤ52章13節)。
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人(つみびと)のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53章11-12節)
また、聖霊降臨の日にペトロが引用した詩編も思い浮かべることができるでしょう。
「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府(よみ)に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」(使2章25-28節、詩編16編8-11節の引用)
これらの箇所が語っているのはイエスのことだと、弟子たちが理解するためには、心の目が開かれる必要がありました。旧約聖書を読むときに、それをイエスと結びつけて読むというのは教会の伝統ですが、きょうの箇所によれば、そのような読み方はイエスご自身が示してくださった読み方なのです。そして、わたしたちの目を開いて聖書を悟らせてくださるのは、復活されたイエスご自身なのです。
(3) 復活のイエスとは一目見れば分かるものではなく、ある瞬間に「そうだ、やっぱりイエスは生きていてわたしたちと共にいてくださる」と気づくもののようです。きょうの箇所の弟子たちにとって、それはパンを裂いたときでした。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」(ルカ24章30節)。5つのパンを大群衆に分け与えたとき(9章16節)も、最後の晩さんのとき(22章19節)もイエスは同じようにしました。イエスのこの動作は弟子たちにとって特別に印象深いものだったようです。
復活したイエスに気づくためのしるしは、ヨハネ20章16節のマグダラのマリアにとっては、「マリア」という呼び声でした。ヨハネ20章20節の弟子たちにとっては「手とわき腹の傷」でした。これらは皆、目の前に立っている人と生前のイエスを結びつけるしるしでした。わたしたちも自分が経験している出来事の中に、福音書のイエスの姿を思い出させる何かが感じられたとき、自分たちの現実の中にイエスがいてくださることに気づくのだと言うことができるのではないでしょうか。それは乏しい中で持っているものを分かち合うことによって皆が満たされるという体験であったり、打ちひしがれている人が立ち上がる勇気を得るというような体験であったり、対立している人びとの間に心が通い合ったりするというような体験でしょう。そのように、わたしたちの「心が燃えていた」(ルカ24章32節)体験を分かち合えたら素晴らしいことです。
(4) 「一緒にお泊まりください」(29節)の「泊まる」は「とどまる」とも訳される言葉です。「主よ、いつもわたしたちと一緒にいてください」それはわたしたちの心からの願いでもあるのではないでしょうか。
先週の福音と同様、この物語の中にも、コミュニティー(共同体)というテーマを感じ取ることができるでしょう。イエスの死は弟子たちのコミュニティーを破壊してしまう出来事でした。この二人も失望し、弟子たちのグループを離れて二人だけでエマオに向かって行きました。しかし、たった一人ぼっちではなく、二人連れでした。二人で話している間に、次第に二人とともにいてくださるイエスに気づいています。そして生きているイエスに出会った二人は、エルサレムに残っていたほかの弟子たちのところに走って戻ることになりました。復活の主との出会いはいつも人と人との間に起こり、人と人とを再び一つに集める力になるのではないでしょうか。


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