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2008年3月14日 (金)

復活の主日・復活徹夜祭 (2008/3/23 マタイ28・1-10)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 復活の主日のミサには「復活徹夜祭」と「日中のミサ」、さらに「夕刻のミサ」があります。古代ユダヤの日付は日没と共に変わることになっていましたが、イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられ、古代から主の過越(すぎこし。イエスが死からいのちへ移られたこと)の祝いは夜中に行われていました。光の祭儀や大人の洗礼・堅信を行って主の過越を祝う復活徹夜祭は復活祭のメインのミサだと言えるでしょう。
 ここで採りあげるマタイ福音書の箇所は徹夜祭のミサの中で読まれる箇所で、日中のミサでも読むことができます。なお、日中のミサの固有の箇所は毎年同じヨハネ20章1-9節、夕刻のミサの福音としてはルカ24章13-35節が読まれることになっています。

福音のヒント

0323   (1) 古代ユダヤの暦では一日の始まりは日没の時でした。ですから「安息日」というのは今でいうと金曜日の日没から土曜日の日没までを指しています。土曜日の日没から始まる次の一日が「週の初めの日」でした。
 マルコ福音書ではイエスの墓にいたのは「若者」ですが、マタイでは「地震」とともに「主の天使」が現れます。マタイはここに神の大きな働きがあり、ここで告げられる言葉はまさに神の言葉であることを明確に示そうとしているようです。

   (2) マルコでは女性たちが墓に着いたとき、すでに墓の入り口をふさいでいた石は取り除けてありましたから、その入り口を通って復活したイエスが墓から出て行ったかのような印象があります。しかし、マタイでは彼女たちが墓に行った瞬間に墓が開きます。マタイで墓の入り口が開かれるのは、イエスが墓を出て行くためではなく、女性の弟子たちに空の墓を見せるためだと言うことができるでしょう。イエスの「復活」とは、死んだ人が生き返ったというレベルの話ではなく、イエスが死に打ち勝ち、神の永遠のいのちを生きる方となったことを表す言葉です。復活のいのちとは、時間・空間の制約を越えたいのちなのです。その意味では、物理的に墓の入り口が開かれている必要も、イエスの遺体がなくなっている必要もないと言えるでしょう。これらの出来事は、復活そのものの証拠というよりも、イエスが復活したということを弟子たちに悟らせるためのしるしなのです。

   (3) 「マグダラのマリアともう一人のマリア」はマタイ27章61節にも登場し、そこではイエスの埋葬を見守っていた女性でした。さらにその前の27章56節では十字架上で死を迎えたイエスを見守っていた女性たちの名として「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」の名前が挙げられています。男の弟子たちが逮捕されたイエスを見捨てて逃げ去ったのに、最後までイエスについていった女性の弟子たちの姿は印象的です。ヨハネ20章の空の墓の場面ではマグダラのマリア一人だけが登場しますが、マタイやマルコ、ルカはこれらの場面すべてに複数の女弟子が立ち合っていたことを伝えています。一人の証言よりも複数の証人による証言のほうが確かだと考えられていたからでしょうか。あるいは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18章20節)というイエスの約束を思い出すこともできるでしょう。さらに、きょうの箇所で「もう一人のマリア」と呼ばれているマリアをわたし自身のことだと考えてみると、福音の場面がもっと身近に感じられるようになるかもしれません。

   (4) 福音書が伝える、復活したイエスに出会った弟子たちの物語は、2000年前に起こった一回限りの出来事というだけでなく、今もわたしたちの中で起こっている、わたしたちとイエス(目に見えないが、今も生きているイエス)との出会いの物語として読むことができます。
 見張りをしていた人たちは地震と天使の出現に「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)のですが、二人の女性も同様だったかもしれません。天使は彼女たちに「恐れることはない」(5節)と語りかけますが、この命令形は現在していることを禁じる命令の形で、「恐れることをやめよ」という意味です。天使の言葉を聞いた女性たちは「恐れながらも大いに喜び」ました。この時点では「喜び」と「恐れ」が同居しています。彼女たちが本当に恐れから解放されるのはイエスに出会ったときです。イエスは「おはよう」と語りかけましたが、この言葉は直訳では「喜べ」です(一般的なあいさつの言葉でもあるので「おはよう」と訳されています)。さらにイエスは彼女たちに天使と同じ言葉で「恐れることはない」(10節)と言います。この出会いが、彼女たちを根本から変えるのです。
 わたしたちの中にもさまざまなことに対する恐れがあるでしょう。時としてわたしたちは恐れに囚われて身動きできなくなっているかもしれません。「恐れ」から解放されて「喜び」に満たされていく体験、そして凍り付いていたわたしたちの心が動き始める体験、そういう体験が復活(過越)の体験だと言ってもよいのでしょう。

   (5) きょうの箇所は確かに出現(死んで復活したイエスとの再会)の物語を含んでいますが、天使もイエスご自身も、この後にもっと重要な出現が起こることを予告します。「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。マタイ福音書のクライマックスは16-20節のガリラヤの山での出現で、きょうの箇所はそこに向かう前段階に過ぎないとも言えます。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。マタイ福音書が伝えようとする復活のイエスは、復活の日の朝、女性の弟子たちに姿を現した方というよりも、目に見えないがいつもわたしたちと共にいてくださるイエスなのです。ところでガリラヤの山と言えば、マタイ福音書の中では5~7章の「山上の説教」も思い出されるのではないでしょうか。復活のイエスはきょうもわたしたちに「幸い」の福音を語りかけ、み言葉をもってわたしたちを導いていると受け取ることもできるはずです。

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