受難の主日 (2008/3/16 マタイ27・11-54)
教会暦と聖書の流れ |
教会の暦では、きょうから始まる聖週間の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度、特別に3日間かけて、キリストの受難・死から復活のいのちへ、という過越(パスカ)を記念します。この中の聖金曜日の典礼で、毎年ヨハネ福音書からの受難朗読が行われます。一方、主日のミサのサイクルでも、キリストの生涯の主な出来事を記念していくので、復活の主日の前の週のこの日曜日に、イエスの受難を記念することになっています。これが受難の主日です。受難の主日には3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書からの受難朗読が行われます(今年はマタイで、長い形としてマタイ26章14節~27章66節を読むこともできます)。なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。
福音のヒント
(1) マタイ福音書の受難物語は、マルコ福音書の受難物語を基にしていて、それにいくつかの独自の伝承を加えています。この箇所で、マタイが付け加えた伝承は、10節のピラトの妻からの伝言、24-25節のピラトと民衆のやりとり、さらに51-53節で神殿の垂れ幕が裂けた後の出来事です。10、24-25節では、イエスが無罪であること、イエスの死の責任はローマ人であるピラトにではなく、むしろユダヤ人にあることが強調されているようです。そこには、マタイ福音書が書かれたころのユダヤ教との対立、ローマ帝国によるキリスト教への迫害などの事情が反映しているのかもしれません(ローマ帝国と敵対しない配慮が必要だったようです)。なお、イエスの裁判はイエスの殺害を正当化するために行われたもので、裁判からはイエスがなぜ死刑にならなければならなかったかは見えてきません。イエスは裁判で自分を神の子であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのこれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったのです(51-53節については後で述べます)。
(2) 40-43節で十字架につけられたイエスをののしる人々の言葉「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」は、マルコ福音書よりもくわしくなっています。この言葉は、イエスの宣教活動に先立つ荒れ野での誘惑の言葉を思い出させます。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(マタイ4章6節)。
自分の身を守る(自分を救う)ことは一般的には悪いことではないはずです。しかし、ここで問題なのは、それがこの場合には人を神から引き離す誘惑であるからです。荒れ野でイエスは自分を神から引き離す誘惑を拒否しました。最後の苦しみの中でもそうしたのです。ただ「悪いことをするかしないか」という面だけで誘惑を考えるのではなく、「わたしたちを神から引き離そうとするものは何か」と考えると、自分の問題としての誘惑が見えてくるのではないでしょうか。
(3) イエスをののしった人々のこの言葉はまた、詩編22編をも思い出させます。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」(9節) マタイの受難物語の背景には、この詩編があります(マルコも同じですが)。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22の冒頭の言葉です。「くじを引いてその服を分け合い」(マタイ27章35節)は、詩編22編18-19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」を思い出させます。
詩編22は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを/決して侮(あなど)らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスもまたその人々の一員だと言ったらよいでしょうか。
マタイは、イエスの十字架を神からも見捨てられたような悲惨な死であるというだけでなく、そこに、徹底して苦しむすべての人とのつながりを生き、同時に神に従って生きる姿を見ていると言ったらよいでしょう。苦しみの中にあるときに、神から離れ、人からも孤立してしまうのか、それとも、苦しみの中で、神につながり、人とつながって生きるのか、それはわたしたちにとっても大きなテーマではないでしょうか。
(4) 51節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」はマルコ福音書も伝える話です。神と人とを隔てているものが取り払われることを暗示しているようです。51節後半-53節「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」は、マタイ福音書だけが伝える不思議な話です。確かに言えることは、イエスの復活がイエス個人だけに意味のあることではなかったということを、この出来事が指し示しているということでしょう。イエスの受難だけでなく、復活にもすべての人との連帯性があるのです。復活とは、神とのきずなの完成であり、同時に人とのきずなの完成です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と約束されるイエスは、わたしたちが死に臨むときも、さらに死を超えても、常に共にいてくださるかたです。ここにわたしたちの希望があるのではないでしょうか。


裏を返せば、それは、「生きたい!」「生きる意味を知りたい!」という心の底からの叫びなのかもしれません。
人は一体、何のために生きているのでしょうか。
人はどこから来て
何のために、勉強し、働き、生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
なぜ、人は孤独なのでしょうか。
愛とは何か、生きる意味、死とは何かなどのことについて、ブログで分かりやすく聖書から福音を書き綴って来ました。
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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書)
投稿 冬目漱石 | 2008年3月 7日 (金) 17時46分