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2008年2月29日 (金)

四旬節第5主日 (2008/3/9 ヨハネ11・1-45)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 四旬節第3~第5主日(A年)に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の3番目の箇所です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。きょうの箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死からいのちへ」と移されていく話です(今回もまた『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。

福音のヒント

0309   (1) ラザロの「よみがえり」は、イエスの復活とは違います。ラザロは地上のいのちに戻されますが、それはいつかまた死ぬことになるいのちです。これに対して、イエス・キリストの復活のいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びることなく、今もいつも生きているいのちです。このような違いはありますが、それでもこの物語の中に「死からいのちへ」という「過越(すぎこし)」のイメージがはっきりと示され、この中でイエスが「復活であり、いのちである」(25節)ことが現されます。
 なお、この出来事はヨハネ福音書の物語の展開の中では、イエスの受難と密接に結びついています。死者を生き返らせたというイエスの評判が広まったことを警戒した人々は、イエスをこのまま放っておけない、と感じてイエスを抹殺しようとするのです(ヨハネ11章45-53節、12章9-11,17-19節参照)。

  (2) ベタニアという町は、エルサレムの近くにあります(18節「5スタディオン」は3km弱)。ルカ福音書10章38-42節にも「マルタとマリア」という姉妹が登場しますが、その場所はエルサレムに近いとは思えません。それでも、ヨハネ11章の「マルタとマリア」とルカ10章に登場する姉妹の性格には、ある共通点があります。ルカでもヨハネでも、イエスを迎えるのはマルタですし、マルタのほうがマリアより行動的だという印象があります。 2節では「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と紹介されています。ヨハネ福音書ではその話は後の12章にありますから、少しおかしな紹介の仕方かもしれません。ヨハネ福音書は、誰もが知っているあまりにも有名な話だからこう言うのでしょうか。あるいはルカ7章36-50節でイエスの足に香油を塗り、その髪でぬぐった女性の話を周知のこととして前提にしているのでしょうか。

  (3) 3節の「愛する」はギリシア語では「フィレオーphileo」という動詞で、人間的な親愛の情(友としての愛)を表すことばです。36節の「愛する」も「フィレオー」です。一方、5節の「愛する」は「アガパオーagapao」で「神の愛」というときに使われる言葉です。そのものを無条件に大切にする愛を表します。ヨハネ福音書はイエスの愛が、単なる人間的な愛着とは違うと言いたいのでしょうか。「栄光のため」「栄光を受ける」(4節)は先週の「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)と似ています。「ため」は目的を表すというよりも、これから神がこの人に救いの働きをなさり、そのことを通して神とイエスの真の姿(素晴らしさ)が輝き出る、という確信を表している言葉でしょう。

  (4) 6節の「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」から16節の「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『私たちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」までの展開は少し不自然に感じられるかもしれません。7~10節と16節だけを取り出してみれば、ラザロの物語とは関係ない別の物語(イエスが危険に満ちたユダヤに赴くが、トマスはイエスに従う決意を表す、という話)と考えることもできます。ラザロの物語の中の空白の数日間を埋めるために、別の言い伝えが挿入されたのでしょうか。とにかくイエスが到着する前に、ラザロは死んでしまいました。

  (5) マルタのことば「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」はイエスに向かって不平を言っているように聞こえます。しかし、おそらくだれでもそんなふうに言いたくなった経験があるのではないでしょうか。「主よ、もしあなたがいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに!」。ルカ10章40節のマルタのことば「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」これも不平のことばですが、わたしたちも同じように「主よ、こんなにひどい現実があるのに、それを何ともお思いにならないのですか!」と叫びたくなることがあるかもしれません。マルタはただ不満を抱くのではなく、それをイエスにぶつけます。それはマルタなりの「祈り」だと言ってもいいかもしれません。そして、イエスとの対話の中で、マルタは本当に大切なイエスからの答えをいただくのです(ルカ10章でもそうでした)。自分の思いをまっすぐにイエスにぶつけていくマルタの姿勢、そこにはわたしたちの祈りのためのヒントがあるかもしれません。

  (6) この物語の中で特に印象的なのは「イエスは涙を流された」(35節)ということばです。福音書の中でイエスが泣いたと記されているのは、ルカ19章41節とこの箇所だけです。33節と38節で「心に憤りを覚え」と訳されている言葉も、大きな感情の動きを表すことばです(新共同訳聖書がこれを「憤り」と訳すのは、「死と滅びの力に対する憤り」の意味でしょう)。さらに、死んで、聞く耳を持たないはずのラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶ姿にも、イエスの激しい思いが感じられないでしょうか。
 ヨハネ福音書が伝える「神的な力を持ったイエス」と「人間的な弱さや感情を持ったイエス」(4章でもそうでした)。この二つの面は切り離せないでしょう。ラザロのよみがえりは、単なる超能力による奇跡ではなく、イエスの深いコンパッション(compassion 共感)から起こる出来事なのです。いや、むしろこのコンパッションの中にこそ、「死を超えるいのち」が輝くと言えるかもしれません。わたしたちが人の苦しみにどれくらい敏感であるかが問われているのではないでしょうか。

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