王であるキリスト (2006/11/26 ヨハネ18・33b-37)
教会暦と聖書の流れ |
教会の暦は待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」は年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日の朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。
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教会の暦は待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」は年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日の朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。
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教会暦で年間最後の3つの主日(第32、33主日と王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれます。世の終わりの救いの完成に目を向ける内容になっています。今年(B年)では、きょうの第33主日にもっともはっきりと「終末主日」の性格が表れています。ちなみに、次週の日曜日「王であるキリスト」の福音はヨハネ福音書が読まれますので、今年主に読まれてきたマルコ福音書の朗読は、きょうが最後ということになります。
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マルコ福音書では11章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざまな人と出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派という人々です。彼らは当時の社会の中で富や権威を持っている人々でしたが、彼らとイエスとの対立は深まるばかりでした。唯一イエスが評価したのが、最後に出会った一人の貧しいやもめの姿です。イエスはこの後、神殿を出て行き、その東にあるオリーブ山から神殿を見ながら、弟子たちに向けて神殿の崩壊を予告し、「決して滅びない」(13・31)ものへの信頼を説いていくことになります(13章)。
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先週の福音(マルコ10・46-52)の舞台はエリコでしたが、きょうの箇所はかなり飛んでいて、エルサレムの神殿の境内での場面になっています。その間に、イエスはエルサレムに入り、当時の宗教的・社会的指導者たちとの間でさまざまな対話をしました。これらの対話は、3年周期の主日のミサの朗読配分の中で、A、B、C年に割り振られていて、今年(B年・マルコの年)は、それらの対話の結びにあたるこの箇所だけが読まれます。
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イエスのエルサレムへの旅は、ガリラヤに始まり、ヨルダン川を下ってきて、エリコの町に到着します。ここまでは130kmほどで、エリコからエルサレムまでは残り30km足らずです。マルコ福音書では、この話の後(11章)はもうエルサレム入りの場面ですので、エルサレムへの旅も終わりに近づいていることになります。イエスに従うことのできなかった金持ちの男(10・17-22)やイエスの受難の道を理解していなかった弟子たち(10・35-45)の姿と対照的に、イエスに従っていったバルティマイの姿が伝えられています。
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場面はエルサレムへの旅の途中で、マルコ福音書の3回目の受難予告(10・32-34)に続く箇所です。「受難の道を歩むイエスに従う」というテーマは先週の福音(10・17-31)から続いています。これまで2回の受難予告同様、ここでもイエスの受難の道について無理解な弟子たちの姿が表われていますが、この弟子たちに向けて、イエスの受難と死の意味がもっともはっきりと語られることになります。
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マルコ福音書の2回目の受難予告(9・31)の後、受難の道を歩むイエスに従うとはどういうことかを示す言葉や物語が続いています。きょうの箇所の冒頭の「イエスが旅に出ようとされると」はガリラヤからエルサレムへの旅のことです。ここでは、「イエスに従う」ということが、よりはっきりとしたテーマとして現れています。
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マルコ福音書では、2回目の受難予告(9・31)の後に、イエスのさまざまな行動や言葉が伝えられています。先週の箇所(9・38-50)に続くきょうの箇所では、当時、社会的な立場・評価の低かった女性と子どもに対するイエスの態度が示されています。ここには、イエスがいのちがけで伝えようとした父(アッバ)である神の心がよく表れていると言えるでしょう。
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先週の箇所(マルコ9・30-37)でイエスは2回目の受難予告をし、ご自分の十字架の道に弟子たちを招きました。先週の箇所では「仕える者になりなさい」「子どもの一人を受け入れる」ということが言われていましたが、それに続くきょうの箇所でも、イエスに従う弟子たちの生き方が示されると考えたらよいでしょう。つまり、ここには、弟子たちの生き方についての教えだけでなく、イエスご自身の十字架の道がどのようなものであるかということも示されていると言えそうです。
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先週の箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所(マルコ8・27-35)でしたが、きょうは少し飛んで、2回目の受難予告と言われる場面です。マルコ福音書の3回の受難予告では、いつも同じパターンがあります。 (i) イエスはご自分の死と復活を弟子たちに予告する。 (ii) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれなことを考えている。 (iii)イエスはその弟子たちにご自分の受難の道の意味を語り、弟子たちを同じ道に招く。 この2回目の受難予告でも同じパターンが見られます。
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耳が聞こえず口のきけない人をいやした先週の箇所(マルコ7・31-37)からは少し飛んでいます。きょうの箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の場面です。ガリラヤでのイエスの力強い活動を伝えるマルコ福音書の前半(1・1~8・30)と十字架と復活への道を歩む後半(8・31~16・8)のターニングポイントとも言える重要な箇所です。
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ファリサイ派・律法学者と「汚(けが)れ」について論じ合った先週の福音(マルコ7・1-23)の後、イエスはティルスという異邦人の地に行きます。そこで異邦人の女と出会い、彼女の娘をいやしますが、同じ話はA年にマタイ福音書から読まれる(マタイ15・21-28)ので、ここでは省略されているようです。イエスに対して批判的なファリサイ派・律法学者の姿と、イエスに出会い、イエスによって信頼と希望を取り戻していく異邦人・障害者・貧しい人々の姿が対比されていく中で、マルコ福音書は前半の頂点とも言えるペトロの信仰告白(8・29)へと向かっていきます。その中できょうのいやしの物語が伝えられています。
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年間第17~21主日までの5週間にわたってヨハネ福音書6章が読まれてきましたが、きょうから再びマルコ福音書の朗読に戻ります。年間16主日はマルコ6・30-34でしたが、その後、マルコ福音書は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与え、湖の上を歩いて舟をこぎ悩んでいた弟子たちに近づき、さらに、多くの病人をいやしたイエスの姿を伝えています。そして、きょうの箇所になります。直前に出てくる地名は「ゲネサレト」で、これはガリラヤ湖の北東岸の町の名です。
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年間第17主日から始まったヨハネ6章の朗読の結びです。ヨハネ6章は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えた出来事から始まって、パンをめぐるイエスと人々との対話が続いてきました。最終的に今日の箇所で、イエスの話を聞いた人々は、「実にひどい話だ」と言いますが、それは「わたしは天から降(くだ)ってきたパンである」(33-40節)、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)というようなイエスの言葉を理解できなかったからだと考えられるでしょう。
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年間17主日で、イエスが5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えた話(ヨハネ6・1-15)が読まれ、そこからパンについてのイエスとユダヤ人との間の長い対話が始まりました。きょうの箇所はその頂点とも言える箇所です。ヨハネ福音書は最後の晩さんの席での聖体制定を伝えていませんが、この箇所で聖体の豊かな意味を語ろうとしています。
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三年周期の主日のミサの聖書朗読配分で、今年(B年)は主にマルコ福音書を読む年ですが、その途中(年間17~21主日)にヨハネ福音書6章の朗読が入り込んでいます。今年は先週の8月6日が主の変容の祝日に当たっていたので、本来年間第18主日に読むはずのヨハネ6・24-35は読まれませんでしたが、きょうの箇所も年間第17主日に読まれた5つのパンと2匹の魚の出来事(6・1-15)に関係しています。
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わたしたちは主日のミサの聖書朗読配分に基づいて福音書を読んでいますが、きょうは年間主日の流れを離れて、8月6日の主の変容の祝日の福音を読みます。キリストの出来事を祝う祝日(主の祝日)が年間の主日に重なった場合、主の祝日のほうを優先して祝うことになっているのです。実は、この日の福音の箇所は、今年(B年)の四旬節第二主日とまったく同じです。この「福音のヒント」もほとんどそのまま使っていますが、四旬節中に読むのと広島の原爆記念日に読むのとでは、受け取る側にとって何かの違いがあるのではないでしょうか?
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主日のミサの朗読配分は、マタイの年、マルコの年、ルカの年の3年周期になっています。ヨハネ福音書はほとんどの箇所にイエスの死と復活というテーマが現れているので、四旬節や復活節に集中して読まれます。ただし、ヨハネ1・19~2・11(イエスと最初の弟子たちの出会い=年間第2主日)と6章(パンについての話)だけは年間主日の流れの中に組み込まれて読まれることになっています。今年はマルコの年で、先週の箇所(マルコ6・30-34)に続くのは、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与える話(6・35-44)ですが、きょうの福音では同じ話をヨハネ福音書から読みます。そして、きょうから5週間、ヨハネ福音書の6章が読まれていくことになります。このようにして、主日のミサの中で4つの福音書をバランスよく読むことができるようになっているのです(ただし、今年の場合は、来週8月6日が「主の変容」の祝日に重なるので、少し例外です)。
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イエスが12人の弟子を派遣した先週の箇所の結びには、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6・12-13)とありました。続く14-29節には、弟子たちがイエスとともにいなかった時間を埋めるかのように、洗礼者ヨハネの殉教の物語が伝えられていますが、きょうの箇所は、内容的には13節から続いています。 この後、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与える話が続きますが、実は、来週の福音は同じ話をヨハネ福音書から読むことになり、ヨハネ6章の朗読が5週間続きます。年間主日のマルコの朗読が再開されるのは、年間第22主日(マルコ7章)からです。
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先週の福音で、ナザレでの活動の後、「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(6・6)とありました。イエスの活動が広がっていくのに伴い、12人の弟子が派遣されることになります。マルコ福音書では、3章で12人の弟子が選ばれていました。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3・13-15)。ずっとイエスのそばにいて、イエスのなさることを見てきた弟子たちが、いよいよ派遣されるのがきょうの場面です。
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先週の福音では、出血の止まらない女性の病気がいやされ、会堂長ヤイロの娘がイエスによって生き返らされました。そこでは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5・34)「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)というように、「信じる」ことが大きなテーマでした。きょうの箇所は先週の続きの箇所ですが、ここでも「信じる」というテーマが大切だといえるでしょう。
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先週の福音でガリラヤ湖の嵐を静めた(マルコ4・35-41)後、イエスは向こう岸の異邦人(ゲラサ人)の地に渡り、そこで悪霊に取りつかれた人をいやしました(5・1-20)。そこから再びユダヤ人の地に戻って来てきょうの箇所になります。きょうの福音では、2つのいやしの物語が伝えられています。おそらくここでは「信じる」というテーマが重要だと言えるでしょう。この「信じる」というテーマは、先週の箇所(5・40)にも来週の箇所(6・6)にもはっきりと表れています。
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四旬節~復活節という長い期間を終え、三位一体の主日とキリストの聖体の祭日を祝った後、教会の暦は再び年間主日の流れに戻ります。年間主日のミサの福音のテーマは、イエスの活動の様子を順を追って思い起こすことです。今年はマルコ福音書を通してイエスの活動の跡をたどっていきます。マルコ4・1に「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」とあり、そこからイエスはさまざまなたとえを用いて神の国について語りました。きょうの箇所の冒頭にある「その日の夕方になって」は、この場面からつながっているようです。
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聖体の制定を記念するミサは、聖週間中の聖木曜日に行なわれる「主の晩さんの夕べのミサ」です。しかし、復活節が終わった後、改めてキリストの聖体の祭日を祝います(本来は聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。この日も先週の三位一体の主日と並んで、四旬節・復活節のまとめと言えるでしょう。聖体の秘跡とはイエスの受難・死・復活にわたしたちが日々結ばれて生きるための秘跡だからです。B年の福音朗読は、マルコ福音書の最後の晩さんの箇所です。
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教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、その次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返りながら、父と子と聖霊である神の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。B年の福音の箇所は、マタイ福音書の結びの部分です。
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聖霊降臨の主日のミサの福音は、毎年同じヨハネ20・19-23を読むことができますが、ここではB年のための任意の箇所を取り上げます。復活祭から50日目に聖霊降臨を祝うのは、使徒言行録2章(第一朗読)にあるペンテコステ(五旬祭)の日の出来事に基づいています。イエスは復活して神のいのちに上げられますが、弟子たちには聖霊が注がれます。弟子たちはこの聖霊に駆り立てられて、福音を告げ知らせ始めました。その意味で聖霊降臨は過越(すぎこし)の神秘の完成であり、同時に教会の活動の出発点なのです。
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使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました(1・3-11、第一朗読)。本来、主の昇天の祭日は復活祭から40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われます。
きょうの箇所はマルコ福音書の結びですが、写本によってはこの部分がないものもあり、後の時代の人の付加した部分だと考えられます(マルコ福音書は本来16・8で終わっていたようです。B年復活の主日の「福音のヒント」参照)。ここにはイエスの死後起こったことがコンパクトにまとめられています。すなわち、弟子たちへの出現、派遣命令、イエスの昇天、イエスが弟子たちとともにいつづけること、です。
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きょうの箇所は先週の「ぶどうの木と枝」のたとえに続く箇所です。
ヨハネ福音書13-16章は、最後の晩さんの席で、イエスが世を去るに当たって、世に残していく弟子たちに向けて語られた遺言のような長い説教を伝えています。しかし、14章の終わり(31節)には「さあ、立て。ここから出かけよう」というイエスの言葉があって、そこで一旦この場面が終わっているようです。おそらく15章以下は、後から拡大された部分でしょう。15-16章では13-14章と同じようなテーマが繰り返され、より深められていると考えたらよいと思われます。きょうの箇所の愛の掟も、13章ですでに一度語られていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13・34-35)。この箇所を重ね合わせながら、きょうの箇所を味わうと良いでしょう。
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復活節第5、第6主日の福音では、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。世を去るにあたってイエスが弟子たちに語られた遺言のような言葉ですが、なぜ、これが復活節に読まれるのでしょうか。
これらのイエスの言葉はほとんどが「わたしは去っていくが、何かを残していく、その何かのかたちでわたしはずっとあなたたちと共にいる」という約束です。この約束は、福音書を書いているヨハネにとっては将来のことではなく、すでに自分たちの中で実現した現在のことでした。今のわたしたちもこのイエスの言葉が、わたしたちの中で現実になっているに気づくときに、イエスが今も生きていることを確信できるのです。復活節は、ただ単に2000年前にイエスが死者の中からよみがえった、ということを祝う季節ではありません。復活して今も生きておられるキリストとの深いつながりを味わう季節なのです。
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復活節第4~第6主日のミサの中では、ヨハネ福音書のイエスのことばが読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとのかかわりを味わうために選ばれた箇所です。第4主日には毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえが読まれますが、ここには良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています(ちなみにA年には1-10節、C年には27-30節が読まれます)。
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先週に続いて、復活したイエスと弟子たちとが出会う場面が読まれますが、きょうの箇所はルカ福音書です。有名なエマオの弟子の話(ルカ24・13-35)の結びに、2人は「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(24・33-34)とありました。きょうの箇所では、そこに再びイエスが姿を現します。
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復活節主日の福音のテーマは次のようにとらえることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所。復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です。このような箇所は2000年ほど前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むこともできるでしょう。
なお、今回の「福音のヒント」は昨年のものとほとんど同じです。
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イエスが十字架で死んだのは今で言えば、金曜日の午後3時ごろでした。古代ユダヤでは日没から新しい一日が始まったので、この日を1日目とすると、金曜日の日没から土曜日の日没までの「安息日」が2日目、土曜日の日没から日曜日の日没までの「週の初めの日」が3日目ということになります。きょうの福音にあるように、週の初めの日の朝早くイエスの墓に行くと墓は空だったので、イエスは土曜日の日没に始まる3日目の夜のうちに復活したと考えられてきました。復活徹夜祭のミサは光の祭儀や入信の秘跡をもって復活を祝うもので、単なる前夜祭ではなく、復活祭のメインのミサだと言うべきでしょう。このようなわけで、ここでは「復活の主日・日中のミサ」の福音、ヨハネ20・1-9(毎年同じ)ではなく、「復活徹夜祭」の福音、マルコ16・1-7(マタイ、ルカと3年周期)を取り上げます。
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教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度3日間かけて、「キリストの受難・死から復活のいのちへ」という「過越(パスカ)」を記念します。毎年この中の聖金曜日の典礼でヨハネ福音書の受難朗読が行われます。一方、主日のミサでも、復活の主日の前の週の日曜日に、イエスの受難を記念します。こちらは3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれます。今年はマルコで、長い形としてマルコ14・1~15・47を読むこともできます。
なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。
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四旬節と復活節の根本的なテーマは、イエスの死と復活(過越)にあずかることです。ヨハネ福音書はある意味で、すべての箇所がこのテーマだと言えるので、この季節によく読まれます。きょうの箇所は、第3、第4主日よりも、さらに直接的にイエスの受難と結びつく箇所です。イエスの受難の時、栄光の時が迫っています。
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四旬節と復活節の根本的なテーマはイエスの死と復活にあずかることです。ヨハネ福音書はある意味で、すべての箇所がこのテーマだと言えるので、この季節によく読まれます。先週の箇所に続き、ヨハネ3章1節からイエスとニコデモとの対話が始まりますが、その中できょうの言葉が語られています。
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四旬節第3~5主日の福音は年によって雰囲気が違います。A年は伝統的な洗礼志願者のための福音(ヨハネ4、9、11章)、C年は回心をテーマとした箇所が読まれます。今年(B年)はイエスの「死と復活」を直接テーマとする箇所が選ばれています。四旬節のさまざまな性格が年毎に表れていると言えるでしょう。そういう意味で、今日の箇所の中心テーマは「三日で建て直される神殿」すなわち「死んで三日目に復活するイエスの体」です。
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四旬節に、いわゆる「主の変容」の箇所を読むのは、教会の古い伝統です。このイエスの栄光の姿は、イエスが受難と死をとおって受けられる栄光の姿が前もって現されたのだと考えられます。この日の福音の中に、「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節の大きなテーマが示されています。
四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。
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「四旬節」は復活祭の準備の季節です。「四旬節」という言葉は「40日間」を意味します。復活祭までの日曜日を除く40日間が断食の期間とされたので、灰の水曜日が四旬節の始まりの日になりました。そもそも復活祭に入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)を受ける人の準備期間であり、今もこの四旬節第1主日に洗礼志願式が行われます。また、教会全体が主の過越(死と復活)にふさわしくあずかるための準備期間と考えられるようにもなりました。
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先週の重い皮膚病の人のいやしに続く場面です。イエスのもとには大勢の病人が押し寄せてきました。ここでは「病気のいやし」と「罪のゆるし」が深く結びついています。
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マルコ福音書は1章39節で、イエスの活動をまとめて「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と述べています。「悪霊を追い出す」ことは「病人をいやす」ことと密接に結びついていました(先週の「福音のヒント」参照)。きょうの箇所は一人の病人とイエスとの出会いを伝えています。
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先週の箇所で、イエスは安息日に会堂で教え、悪霊に取りつかれていた人をいやしました(マルコ1・21-28)。今日の箇所はその続きで、同じ日の出来事です。29節「すぐに」、32節「夕方になって日が沈むと」、35節「朝早くまだ暗いうちに」と時間を追って、カファルナウムでのイエスの活動の様子が伝えられています。
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先週の箇所でイエスは神の国の福音を告げる活動を始め、まずガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしました(1・14-20)。それに続く箇所がきょうの箇所ですが、38節までは時間を追って出来事が進行していき、全部が丸一日の間に起こっています。マルコは、イエスのガリラヤでの活動の様子を、カファルナウムでの典型的な一日を語ることによって、伝えようとしているのでしょう。
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