« 年間第33主日 (2006/11/19 マルコ13・24-32) | トップページ | 待降節第1主日 (2006/12/3 ルカ21・25-28、34-36) »

2006年11月26日 (日)

王であるキリスト (2006/11/26 ヨハネ18・33b-37)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

「ワード文書」    「PDF」
ダウンロードができます

 教会の暦は待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」は年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日の朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。

福音のヒント

1126_2     (1) イエスは最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑に処せられることに決まりましたが、その罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。この罪状は「ローマ帝国に対する反逆者」を意味しています。イエスが誕生したとき、すでにパレスチナはローマ帝国の支配下にありましたが、いちおうはヘロデ大王と呼ばれる王がいて、ローマ帝国を後ろ盾としてパレスチナを支配していました。イエスが成人して活動していたころ、ガリラヤ地方にはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスという領主がいましたが、ユダヤ地方はローマ帝国の直轄領になっていました。つまり「ユダヤ人の王」はいてはならないわけであり、もし誰かが自分を「ユダヤ人の王」だと主張すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになるのです。

  (2) 「王」という言葉はギリシア語で「バシレウスbasileus」と言います。この言葉から「国=バシレイアbasileia」という言葉が生まれました。これは英語で言えば「King」と「Kingdom」の関係ですので、「バシレイア」は「王国」と訳したほうが正確かもしれません。また「王としての支配」「王であること」「王になること」という意味もあります。現代の国家には「共和国」という王のいない国がありますが、古代では王なしに国は考えられませんでした。ピラトはイエスが「わたしの国(バシレイア)」(36節)と言った言葉を聞いたので、「それでは、やはり王(バシレウス)なのか」(37節)と問い詰めるのです。
 
  (3) 「この世には属していない」(36節に2回)と訳されている箇所は、直訳では「わたしの国はこの世の中からのものではない」です。「~の中から」というところには「エックek」という前置詞が使われています。新共同訳のように「この世に属していない」ととることもできますが、むしろ「この世に根拠をおいていない」という意味にとったほうがよいかもしれません。
 イエスのバシレイアは、この世のバシレイアと違います。それは宗教的領域と世俗的領域というような領域の違いというよりも、因(よ)って立つ根本原理の違いです。イエスの身を守るために弟子たちが戦うというのは、この世の原理でしょう。これは力の原理です。一方イエスは「真理について証しする」のであり、イエスのバシレイアは、人間の力ではないものに根拠を置いているのです。

  (4) 「真理」という言葉はギリシア語で「アレーテイアaletheia」ですが、この言葉にはもともと「隠されていないこと」という意味があります。ギリシア人にとって、真理とは、「そのものの外見の覆いを取り去った本質」というようなニュアンスがあります。一方、ヘブライ語は「エメト」です。これは「アーメン」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。
 ヨハネ福音書にはこの「真理」という言葉がよく使われていますが、この両方のニュアンスがあるようです。それは決して抽象的・哲学的な真理ではなく、「何よりも確かで、頼りになる神ご自身をイエスが言葉と生き方をとおして現す」ということを示しているのです。きょうの箇所の続きで、ギリシア・ローマ文化の中に生きるピラトは「真理とは何か」(38節)と問いかけますが、イエスは何も答えません。この対話はここで終わっています。イエスの語る「真理」は抽象的な哲学論議の問題ではないのです。この真理とは、イエスの生涯、特に十字架の死と復活の中に現されるものなのです。

  (5) 「真理」という言葉は人間によって悪用されてきた面もあります。ある人々が、自分たちは「真理」を持っていると主張し、その「真理」を振りかざすところから、生きている人間の喜びや苦しみを無視した残虐な行為に走ることができるとしたら、真理とは非常に危険なものではないでしょうか。
 イエスの真理は違います。イエスがあかしする「真理」とはなんでしょうか? それはヨハネ福音書の内容に即して言えば、「神が愛であること」だと言ったらよいのではないでしょうか。
 1・17-18「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
 3・16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 13・1「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
 15・9-10「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

  (6) この真理はイエスの生涯をとおして示されました。そして、最終的にいつかそれが明らかになるのだ、と信じるのが終末についての信仰です。イエスが王となるということは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」ことだといってもよいのでしょう。そしてそう信じるときに今のわたしたちが何を大切にして生きるか、が問われてくるのです。

« 年間第33主日 (2006/11/19 マルコ13・24-32) | トップページ | 待降節第1主日 (2006/12/3 ルカ21・25-28、34-36) »

2006年(主日B年)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 年間第33主日 (2006/11/19 マルコ13・24-32) | トップページ | 待降節第1主日 (2006/12/3 ルカ21・25-28、34-36) »