王であるキリスト(2005/11/20 マタイ25・31-46)
教会暦と聖書の流れ |
この箇所はマタイ24章4節から始まった終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語です)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。
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この箇所はマタイ24章4節から始まった終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語です)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。
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イエスは地上の活動の終わりに、エルサレムの東にあるオリーブ山の上で、エルサレムを見ながら弟子たちに向けて終末についての説教をしました(マタイ24-25章)。24章42節から「目を覚ましていなさい」というテーマがずっと展開されていますが、きょうの箇所は先週の「10人のおとめ」のたとえに続く箇所です。ここでも、いつか突然訪れる終わり(キリストの再臨)に向かって「目を覚ましている」とはどういうことか、最終的に神の目から見て何が良しとされるのか、ということがテーマになっています。
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年間主日のミサの福音朗読は、イエスの宣教活動の歩みをたどってきました。その結びの3つの主日(年間第32、33、王であるキリスト)に、今年はマタイ福音書でイエスの最後の説教となる3つの箇所 (25・1-13、14-30、31-46)が順番に読まれていきます。この3つの主日は「終末主日」とも呼ばれますが、福音の内容はちょうど終末についての教えになっています。指導者たちと対決した神殿を後にし、イエスはオリーブ山からエルサレムの町と神殿を見ながら、弟子たちに向けて終末についての説教をします(マタイ24-25章)。マルコ13章では、「目を覚ましていなさい」という警告でこの説教は結ばれますが、マタイはこの部分を拡大し、24・45-51のたとえと25章全体を伝えています。
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マタイ福音書は、エルサレムの神殿の境内での宗教的指導者たちとの論争に続き、群集と弟子たちに向けた説教の形で、イエスのファリサイ派・律法学者に対する徹底的な批判の言葉を伝えています。マルコ福音書では短いことば(12・38-40)ですが、マタイではこの批判は36節まで続く長いものになっています。ルカ11・37-53にも同じような言葉がありますが、ルカではエルサレムへの旅の途中で出会ったファリサイ派の人と律法学者に向かって直接語られています。マタイは神殿の境内での論争をとおして、イエスとファリサイ派・律法学者との対立が決定的なものとなったことを印象づけるために、これらの言葉をここに置いているのでしょう。イエスの受難は間近に迫ってきています。
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先週の「皇帝への税金」についての問答の後、「復活についての問答」があり、きょうの「最も重要な掟」の話になります。さらにこの後の「ダビデの子についての問答」も含め、マタイ福音書ではイエスと当時の有力者(ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派)との論争・対決が続いていきます。
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マタイ福音書では、イエスが当時の指導者たちやファリサイ派を批判した「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「婚宴」のたとえに続いて、この場面になります。マタイ21・45-46には「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」という言葉がありました。イエスと彼らの対立はもはや決定的となっていて、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもってイエスに近づいて来ます。
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「二人の息子」のたとえ、「ぶどう園と農夫」のたとえに続き、これも神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々を前にして語られるたとえ話です。前の2つのたとえ話と同じように、神の国への招きを受け入れなかった人々が批判されています。
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先週の「二人の息子」のたとえに続き、イエスは神殿の境内で、祭司長や民の長老といった当時のユダヤ人の指導者たちに向けて、この「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。
ぶどう園で働いていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の僕にひどいことをし、主人の息子を殺してしまう、というこのたとえ話は、迫り来るイエスの受難を予感させるものだとも言えるでしょう。
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マタイ福音書では、21章からイエスのエルサレムでの活動が始まります。神殿の境内で、イエスは祭司長や民の長老という当時の指導者たちと論争しています。この「二人の息子」のたとえ話はマタイだけが伝えていますが、マタイは、直前の箇所(23-27節)の権威についての論争で洗礼者ヨハネを「信じなかった」当時の指導者たちの姿が現れるのを受け、同じテーマの話として、このたとえ話を伝えています。
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このぶどう園の労働者のたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。この箇所の直前19・30と結びの20・16に「先の者は後になり、後の者は先になる」という言葉があり、これがこのたとえ話のテーマを示す枠のようになっています。
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マタイ18章の教会共同体についての教えをまとめた箇所の結びです。このたとえ話は、主の祈りの中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という祈りの解説のようなたとえ話だと言えるでしょう。
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マタイ福音書18章は教会共同体のあり方についての教えをまとめた箇所です。子どもを受け入れること(1-5節)、小さい者をつまずかせないこと(6-9節)。一貫して問われているのは、メンバーの中の弱い人々に対する配慮を欠かさないということです。きょうの箇所は迷い出た羊のたとえ(10-14節)に続いて語られますが、罪を犯した兄弟も「小さな者」であり、滅びてはならない「一匹の羊」なのです。
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先週のペトロの信仰告白に続く「受難予告」の場面です。先週の箇所で、信仰告白したペトロをイエスは祝福し、特別な使命を与えていましたから、きょうの箇所で同じペトロが厳しく叱責されるのは少し不自然に感じられるかもしれません。きょうの箇所全体はマルコ福音書に基づいていますが、マタイ福音書は「このときから、イエスは、・・・・始められた」(21節)と述べます。マタイ4・17にも同じ表現がありましたが、これは、前の話とのつながりを示すのではなく、ここからイエスの活動の新たな段階(ここでは受難に向かう歩み)が始まることを表す表現のようです。
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この話の直前には、「清め」に関するファリサイ派・律法学者とイエスの論争があります。彼らは神の律法を熱心に守ろうとしたユダヤ人でしたが、細かい清めの律法を守ることを重んじ、もっとも大切な神の心を見失っていました。次に登場するのが、その正反対とも言える「神を知らないはずの」異邦人の女性です。
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先週の福音は、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人の飢えを満たしたという箇所でした。きょうはそれに続くもう一つの不思議な話です。弟子たちはこのような体験をとおして、イエスを特別な、神からの力に満ち溢れた方と見るようになっていきます。
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このパンの出来事は4つの福音書に共通して伝えられている話です。マタイ福音書では洗礼者ヨハネの殉教の話に続いています。「イエスはこれ(洗礼者ヨハネの死)を聞くと、…ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)とありますから、ここでイエスは、自分にも危険が及びそうな状況を知って身を隠そうとしているのでしょうか。しかし、人々の飢え渇きに応えるイエスの活動は変わらずに続いていきます。
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マタイ13章には天の国(神の国)のたとえが集められています。先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所ですが、ここでもイエスは、終末(世の終わり)における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に目を向けさせていると考えたらよいでしょう。
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日曜日のミサの福音では省略されているマタイ12章は、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスの活動と、それに対するさまざまな反応を伝えています。イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(神の国)は力強く成長しているということを語るのが13章のたとえ話集だと言えるかもしれません。
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マタイ11章では洗礼者ヨハネやイエスを受け入れなかった人々のことが語られています。きょうの箇所を、そのような状況の中でのイエスの祈りと、人々に対する招きとして読むことができるでしょう。
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マタイ福音書10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教という形になっています。きょうの箇所はその結びの部分です。16節からの、弟子たちに対する迫害の予告という雰囲気は最後まで続いているようです。
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先週に引き続き、12使徒を派遣するにあたってのイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10・14)、迫害を受けることが避けられない(10・17-23)ことをイエスは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきかがきょうの箇所で語られます。
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マタイ4~9章では「天の国」について語り、多くの病人をいやすイエスの活動が伝えられてきました。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9・35)は、そのまとめと言えます。きょうの箇所はその続きで、イエスがなさってきた活動をさらに広げていくために、12人の弟子が選ばれ、派遣されることになります。
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四旬節・復活節などの長い中断の後、再び年間主日のサイクルに戻りました(四旬節の前は年間第5主日でした。年間第6~9主日までは今年は祝われないことになります)。今年の年間主日では、マタイ福音書をとおして、イエスの活動の歩みをたどっていきます。マタイ福音書は山上の説教(5-7章)の後、8-9章でイエスのさまざまな活動の様子を伝えていきます。
| 教会暦と聖書の流れ |
キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国では次の日曜日に移して祝われます。教会暦の流れから言えば、この祭日は、三位一体の主日と並んで四旬節・復活節の「まとめ」と言ってもよいでしょう。聖体は、「キリストの死からいのちへの過越」にわたしたちが結ばれることを意味しているからです。なお、特別に聖体の制定を記念するミサは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」です。「聖体」という同じテーマを、復活節が終わった今、もう一度味わい直すことになります。
A年の福音の箇所は、ヨハネ6章から採られています。イエスが5つのパンと2匹の魚を5,000人以上の群集に分け与えたという話をきっかけとして、パンをめぐるイエスと人々の対話が始まりますが、そのイエスの言葉の頂点と言うべき箇所がきょうの箇所です。
【教会暦と聖書の流れ】
聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返り、父と子と聖霊の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。
【教会暦と聖書の流れ】
日本語では「聖霊降臨」ですが、ラテン語などヨーロッパ諸言語では元のギリシア語のまま「ペンテコステ」(「50番目」の意味)と呼ばれる日です。第一朗読の使徒言行録2・1-11の記事に基づき、復活祭から50日目のこの日曜日、使徒たちの上に聖霊が降(くだ)り、使徒たちが活動を始めたことが祝われます。一方、福音の記事は復活節第二主日にも読まれた箇所で、復活の当日の夕方、使徒たちに聖霊が与えられたことを伝えています。日付や場面は異なりますが、イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことが記念されます。ここでは、ヨハネ福音書と使徒言行録の両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きを味わうことにします。
【教会暦と聖書の流れ】
使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられ(1章)、50日目の五旬祭(ペンテコステ)に聖霊が降りました(2章)。教会の暦はこの記事に基づいて復活節を祝っています(本来、主の昇天の祭日は40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。
A年の主の昇天では、マタイ福音書の結びの部分が読まれます。ここには、イエスが神の子としての栄光・権威を受けたことと、目に見えないがいつもわたしたちとともにいてくださるという、復活節全体の二つの大きなテーマがはっきりと示されています。
【教会暦と聖書の流れ】
先週に引き続き、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスのことばです。自分は目に見える形ではもういなくなる、しかし、何かが残るということをイエスはさまざまな形で約束しますが、その中心は「聖霊の派遣」だと言えるでしょう(14・16-17、14・26、15・26-27、16・7-15)。イエスが世を去って父のもとに行き、弟子たちに残されるのは何よりも聖霊なのです。復活節の流れの中では、聖霊降臨の主日を準備するような箇所だとも言えます。
【教会暦と聖書の流れ】
ヨハネ福音書では13章から17章までが最後の晩さんというたった一回の食事の場面です。この席でイエスは、世に残していく弟子たちに向けて長い遺言のような説教をしました。その言葉の多くは、イエスは目に見える形ではもういなくなる。しかし、何かが残る、という約束です。もちろん1世紀末に書かれたヨハネ福音書は、それをただ将来起こることについての約束ではなく、今すでに自分たちの中で実現した約束として伝えているのです。そして今のわたしたちも、このイエスの約束が(不完全かもしれませんが)自分たちの中で実現している、と感じたときに、イエスは今も生きている、と言うことができるのでしょう。
【教会暦と聖書の流れ】
復活節第4~第6主日のミサの中では、ヨハネ福音書のイエスのことばが読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとの関わりを味わうために選ばれた箇所です。第4主日は毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえですが、ここには良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています(ちなみにB年に11-18節、C年に27-30節が読まれます)。
【教会暦と聖書の流れ】
きょうの箇所も「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語です。前の週のヨハネ20章同様、この箇所も2000年前の出来事というだけでなく、「生きておられる」(ルカ24・23)イエスと今のわたしたちとの出会いの物語として読むことができるでしょう。ミサや聖餐式との関連もよく指摘されています。聖書のことばを聞き、パンを裂く中にいつも復活したイエスが共にいてくださるということを味わうために、最適の箇所と言えるかもしれません。
【教会暦と聖書の流れ】
復活節主日の福音のテーマは次のように捉えることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所。復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です。このような箇所は2000年程前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むこともできるでしょう。
【教会暦と聖書の流れ】
復活の主日のミサには「復活徹夜祭」と「日中のミサ」、「夕刻のミサ」があります。古代ユダヤの日付は日没と共に変わることになっていましたが、イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられ、古代から主の過越(イエスが死からいのちへ移られたこと)の祝いは夜中に行われていました。光の祭儀や大人の洗礼・堅信を行って主の過越を祝う復活徹夜祭は復活祭のメインのミサだと言えるでしょう。
ここにあげたマタイ福音書の箇所はこの徹夜祭のミサの中で読まれる福音で、日中のミサでも読むことができます。日中のミサの固有の箇所は毎年同じヨハネ福音書20・1-9ですが、今回はマタイを取り上げます(なお、夕刻のミサではルカ24・13-35が読まれます)。
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度、3日間かけて、キリストの受難・死から復活のいのちへ、という過越(パスカ)を記念します。毎年この中の聖金曜日の典礼でヨハネ福音書からの受難朗読が行われます。一方、主日のミサのサイクルでも、キリストの生涯の主な出来事を記念していくので、復活の主日の前の週の日曜日に、イエスの受難を記念することになっています。受難の主日には3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書からの受難朗読が行われます(今年はマタイ。長い形としてマタイ26・14~27・66を読むこともできます)。
なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。
【教会暦と聖書の流れ】
四旬節第3~第5主日(A年)に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の3番目の箇所です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。きょうの箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死から命へ」と移されていく話です(今回もまた『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。
【教会暦と聖書の流れ】
四旬節第3~第5主日に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の2番目です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。きょうの箇所は、生まれながら目の見えなかった人がイエスによって「闇から光へ」と移される物語です (なお、今回も『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。
【教会暦と聖書の流れ】
古代から伝わる洗礼志願者のための朗読箇所は、ヨハネ4章(サマリアの女)、9章(生まれつきの盲人のいやし)、11章(ラザロのよみがえり)です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。現在の朗読配分では、この3箇所がA年(今年)の四旬節第3、第4、第5主日に読まれます(なお、ここでは、『聖書と典礼』の短い朗読ではなく、伝統的な長い朗読に基づいて話を進めます)。
【教会暦と聖書の流れ】
古代からの伝統に従い、四旬節第2主日の福音では毎年「イエスの変容」の場面が読まれます。今年はマタイ福音書です。山の上でイエスの姿が光り輝いた、この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエスの栄光の姿が表された」のではなく、「イエスが受難と死をとおって受けられる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。ここに「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されているのです。
四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。
【教会暦と聖書の流れ】
洗礼は、キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生きはじめることを表す秘跡なので、古代の教会では復活祭に行われていました。また、復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための特別な期間が徐々に形作られていきました。これが四旬節の起こりです。
時代とともに、四旬節はただ洗礼志願者のための季節というだけでなく、キリスト者全体がキリストの死と復活にふさわしくあずかるための期間と受け取られるようになりました。
「四旬節」ということばは40日間を意味します。これはもともと断食の日数でした(伝統的に日曜日を除いて復活祭前の40日を数えるので、灰の水曜日からが四旬節となります)。四旬節には、断食に象徴される回心=主に立ち返ること、さらに具体的に「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められています。
この日の福音では、四旬節の原型である、イエスの荒れ野での誘惑の場面が読まれます。今年はマタイですが、先週までの年間主日の流れから離れて、もう一度、イエスの活動の出発点に立ち戻ります。ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされ、「神の子」として示されたイエスは、同じ聖霊によって荒れ野に導かれ、悪魔と対決しますが、その中で「イエスの神の子としての道」が明らかにされていくのです。
【教会暦と聖書の流れ】
マタイ福音書5~7章のいわゆる「山上の説教」の中で、冒頭の「八つの幸い」に続いて語られることばです。イエスはガリラヤの丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらのことばを語られました。もちろん特定の弟子だけでなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(4・24)であった群集もこのことばを聞いていたのです(7・28参照)。
マタイ福音書でイエスの活動の歩みを追っていく今年の年間主日ですが、今週の水曜日から四旬節になり、この流れは中断してしまいます。年間主日の流れに戻るのは、6月5日の年間第10主日(マタイ9・9‐13)です。祭日と重なるなどの理由で4つの主日が消えてしまうので、山上の説教の多くの部分は読まれないままです。それではあまりにも残念ですから、先週と今週の福音を手がかりに、ぜひ一人でゆっくり味わってみてください。
【教会暦と聖書の流れ】
この箇所の直前、マタイ4・24に次のようなことばがあります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた」きょうの箇所はこの「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です(いわゆる「弟子」だけでなく、群集も聞いていました。7・28参照)。
【教会暦と聖書の流れ】
きょうの箇所はマタイ福音書の、いわゆる宣教開始の場面です。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔からの誘惑を退けたイエスが、いよいよご自分の活動を始めていきます。きょうから11月まで、年間主日のミサでは、マタイ福音書の朗読が続きます(途中に四旬節・復活節の大きな中断がありますが)。
きょうの福音でマタイが引用しているイザヤ8・23‐9・1は、主の降誕・夜半のミサでも読まれた箇所です。降誕節の余韻として「エピファニア(神の栄光の現れ、光・輝き)」のテーマが続いているとも言えるでしょう。
【教会暦と聖書の流れ】
「年間主日」のミサの福音は福音を告げるイエスの活動の歩みを追っていきます。三年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれ、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれるようになっています。ところで、ヨハネ福音書でイエスの最初期の活動を伝える部分は他に読む日がないので、年間第2主日に読まれることになったわけです。
ヨハネ福音書は主の降誕・日中のミサで読まれた序文(1・1-18)のあと、イエスの活動のはじまりを最初の六日間の出来事として伝えています(1・19~2・11)。それは創造の六日間(創世記1章)を思い起こさせるものです。イエスによって「新しい創造」とも言える神の業が始まったのです。きょうの箇所は「その翌日」という言葉から始まる第2日目の出来事です。もちろん、成人したイエスの話ですが、ここに降誕節の「エピファネイア(公現)=イエスの栄光の現れ」というテーマの余韻を感じ取ることもできるでしょう。
【教会暦と聖書の流れ】
降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、そこには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いているのです。
同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。
【教会暦と聖書の流れ】
公現の祭日は本来は1月6日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われます。「公現」はギリシャ語では「エピファネイアepiphaneia」で「現れること」です。イエスにおいて神の栄光が現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマだと言えます。
福音は毎年同じ箇所で、マタイ福音書の話が読まれます。マタイはルカとはまったく違うイエスの幼年時代の物語を伝えています。無理やり1つの物語にしてしまうより、それぞれの物語を通して神が語りかけているものを受け取るとよいでしょう。
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの後の主日は聖家族の祝日です。この日、イエスの子どものころの家庭生活に思いを馳せます。伝統的にイエス、マリア、ヨセフの家族は「聖家族」と呼ばれ、わたしたちの家庭の模範のように考えられてきました。今年の福音の箇所はマタイ福音書で、ヨセフと家族がエジプトに逃れる話ですが、この話はマタイだけが伝えるものです。次の日曜日「主の公現」の福音はマタイ2・1-12で順序が逆になりますが、今日の箇所とつながっています。
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの直前の主日には、直接イエスの誕生に関係する箇所が読まれます。今年の箇所はマタイ福音書で、幼子の誕生がヨセフに告げられる場面です。
マタイ福音書は「イエス・キリストの系図」として、アブラハムからヨセフまでの系図を伝えます(1・1-17)が、16節は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっています。ヨセフとイエスの間に血のつながりはありません。それでもヨセフはきょうの箇所を通して、信仰によってイエスの父としての役割を引き受けていくことになります。
【教会暦と聖書の流れ】
先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はイエスです。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、が示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」とも言われてきました。待降節は、英語で「Adventアドベント(到来の意味)」ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。
【教会暦と聖書の流れ】
待降節(英語ではアドベント、本来の意味は「到来」)の第2、第3主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネについての箇所が読まれます。それはわたしたちが洗礼者ヨハネの弟子になるためではありません。わたしたちはイエスの弟子になろうとしています。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」のほうに心を向けていくのです。
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの4週前の日曜日から待降節が始まります。教会の暦ではこの待降節第一主日から新しい年になります。3年周期の主日のミサの朗読配分ではA,B,C年のうちA年にあたり、福音は主にマタイ福音書が読まれていきます。
「待降節」という日本語は「主の降誕を待つ季節」という意味では分かりやすいのですが、ラテン語はADVENTUS(英語ではアドベントadvent)で、「到来」を意味する言葉です。待降節とは、2000年前にイエスが世に来られたことを思うだけでなく、世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う季節でもあります。待降節の福音朗読は、終末についての説教からとられた「目を覚ましていなさい」ということばから始まります。