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2004年9月26日 (日)

ルカ16・19-31 (2004/9/26 年間第26主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 イエスのエルサレムへの旅が続いています。この旅の段落の中に、ルカは他の福音書にないイエスの多くのことばを伝えています。このたとえもルカ福音書だけが伝えるものですが、お金や富の問題は先週の福音から続いているテーマです。

【福音のヒント】

 (1) この箇所の少し前の14節には「金に執着するファリサイ派の人々」ということばがありました。ファリサイ派は当時のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法(律法学者たちによる律法解釈)を厳格に守ろうとしていました。彼らがなぜ、「金に執着する」と言われるのでしょうか。隣人を愛し、貧しい人のために自分の持っているものを分かち合うという律法に表された神の根本的な要求よりも、自分の生活の豊かさを確保した上で、安息日の義務や清めに関する細かい規定を必死で守ろうとしていた態度のためでしょう。それはわたしたちにとって他人事でしょうか。

 (2) このたとえ話には、死後の世界についての描写があります。「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」「陰府でさいなまれ」「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって」などです。ここにある死後の世界の描写は当時の人々の考えに基づいたもので、イエスは死後の世界の有様について教えようとしているのではありません。イエスは、死という時・決定的な神の「裁き」という観点から見て、今をどう生きるかを鋭く問いかけているのです。
 なお、このラザロという人は特別に正しい人であったとは言われていませんが、金持ちと貧しいラザロの状況は死後逆転します。このような神による逆転は、ルカ福音書の特徴といえるかもしれません(ルカ1・52-53、6・20-26参照)。その根底にあるのは、「神の真実な方で、貧しい人の苦しみを決して見過ごされることはない」という考えだといえるでしょう。 

 (3) 「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」(29節)「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)といわれますが、それは、貧しい人を助けなければならない、ということについて、旧約聖書をとおしてすでにはっきりと聞いているはずだ、ということです。
たとえば、申命記にはこういう箇所があります。
 「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。・・・・彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記15・7-11)
 イザヤ書にもこうあります。
 「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。・・・・飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(イザヤ58・6-10)

 (4) このようなことばを、この金持ちとその兄弟たちは聞いていたはずだ、というのです。この金持ちが聞き逃したのはそういう聖書のメッセージであり、見過ごしたのは目の前の人の苦しみでした。わたしたちにとっても呼びかけは2つあると言えるでしょう。1つは「聖書」からの呼びかけ、神が人間に何を望んでおられ、わたしたち人間は何をすべきか、ということです。しかし、呼びかけは「現実」から来るとも言えるでしょう。自分の家の目の前に、貧しい人が横たわって苦しんでいる、その現実はわたしたちに何かを呼びかけています。そして、聖書をとおしての神の呼びかけと、目の前の人間の現実の必要が結びついたときに、わたしたちの具体的な行動への呼びかけになるはずです
 わたしたちはそういう呼びかけを聞いているでしょうか。それに応えているでしょうか。どうしたらその呼びかけに本当に応えることができるでしょうか。

 (5) 「死者の中から生き返る者」(31節)ということばは、イエスご自身を暗示しているのでしょうか。もちろんここでは、その者を見ても回心しないだろう、と言われるのですが、イエスご自身の姿を思い浮かべることは、福音を読むときにいつも大きなヒントになります。イエスは単にことばによる教えを述べたのではなく、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」(Ⅱコリント8・9 きょうのアレルヤ唱参照)と言われる方です。それは単なる「施し」をはるかに超える姿でした。さらに、マタイ25・31-46でイエスが、飢え、のどが渇き、旅をしていて、裸であったり、病気であったり、牢にいる人にしたことは「わたしにしてくれたことだ」と言った言葉も思い出すならば、「イエスは死者の中から復活して、貧しい人・もっとも小さな兄弟の中にいる」と言ってもいいかもしれません。わたしたちは、その呼びかけを聞くことができるでしょうか。

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