「聖書の集い」は、小さなグループで一緒に福音書を読み、ともに祈る「バイブル・シェアリング(聖書の分かち合い)」の一つの方法です。皆様ご存じでしょうが、「福音のヒント」はもともと、この「聖書の集い」で使うために作られています。「聖書の集い」について学ぶセミナーを毎年春と秋に行なっていますので、どうかご参加ください。くわしくはこちらをごらんください。
「聖書の集い」は、小さなグループで一緒に福音書を読み、ともに祈る「バイブル・シェアリング(聖書の分かち合い)」の一つの方法です。皆様ご存じでしょうが、「福音のヒント」はもともと、この「聖書の集い」で使うために作られています。「聖書の集い」について学ぶセミナーを毎年春と秋に行なっていますので、どうかご参加ください。くわしくはこちらをごらんください。
教会暦と聖書の流れ |
教会暦で年間最後の3つの主日(第32、33主日と王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれます。聖書朗読は、世の終わりの救いの完成に目を向ける内容になっています。今年・B年では、きょうの第33主日にもっともはっきりと「終末主日」の性格が表れています。ちなみに、来週の「王であるキリスト」の福音はヨハネ福音書が読まれますので、今年主に読まれてきたマルコ福音書の朗読は、きょうが最後ということになります。
教会暦と聖書の流れ |
マルコ福音書では11章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざまな人と出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派という人々です。彼らは当時の社会の中で富や権威を持っている人々でしたが、彼らとイエスとの対立は深まるばかりでした。唯一イエスが評価したのが、最後に出会った一人の貧しい「やもめ」の姿です。イエスはこの後、13章で神殿を出て行き、その東にあるオリーブ山から神殿を眺めながら、弟子たちに向けて神殿の崩壊を予告し、「決して滅びない」(13章31節)ものへの信頼を説いていくことになります。
教会暦と聖書の流れ |
11月1日は諸聖人の祭日で、年間主日と重なるとこの祭日のほうが優先して祝われます。ラテン語で聖人を表す言葉は(複数形では)「サンクティsancti」や「ベアティbeati」です。sanctiのほうは「神の人、聖なる人」の意味ですが、beatiのほうは「幸いな人、祝福された人」の意味です。この日のミサの福音では、マタイ福音書の「山上の説教」の冒頭の箇所が読まれます。8つの「幸い」(ギリシア語複数形で「マカリオイmakarioi」)は、ラテン語ではbeatiと訳されます。聖人とは、まさにこの「幸いな人」と言えるでしょう。
教会暦と聖書の流れ |
イエスのエルサレムへの旅は、ガリラヤに始まり、ヨルダン川を下ってきて、エリコの町に到着しています。ここまでは130kmほどで、エリコからエルサレムまでは残り30km足らずです。マルコ福音書では、この話の後(11章)はもうエルサレム入りの場面ですので、エルサレムへの旅も終わりに近づいていることになります。イエスに従うことのできなかった金持ちの男(10章17-22節)やイエスの受難の道を理解していなかった弟子たち(10章35-45節)の姿と対照的に、イエスに従っていったバルティマイの姿が伝えられています。
教会暦と聖書の流れ |
場面はエルサレムへの旅の途中で、マルコ福音書の3回目の受難予告(10章32-34節)に続く箇所です。「受難の道を歩むイエスに従う」というテーマは先週の福音(10章17-31節)から続いています。これまで2回の受難予告同様、ここでもイエスの受難の道について無理解な弟子たちの姿が表われていますが、この弟子たちに向けて、イエスはご自分の受難と死の意味をもっともはっきりと語られます。
教会暦と聖書の流れ |
マルコ福音書の2回目の受難予告(9章31節)の後、受難の道を歩むイエスに従うとはどういうことかを示す言葉や物語が続いています。きょうの箇所の冒頭の「イエスが旅に出ようとされると」はガリラヤからエルサレムへの旅のことです。ここでは、「イエスに従う」ということが、よりはっきりとしたテーマとして表れています。
教会暦と聖書の流れ |
マルコ福音書では、2回目の受難予告(9章31節)の後に、イエスのさまざまな行動や言葉が伝えられています。先週の箇所(9章38-50節)に続くきょうの箇所では、当時、社会的な立場・評価の低かった女性と子どもに対するイエスの態度が示されています。ここには、イエスがいのちがけで伝えようとした神(アッバ)の心がよく表れていると言えるでしょう。
教会暦と聖書の流れ |
先週読まれたマルコ9章30-37節で、イエスは2回目の受難予告をし、ご自分の十字架の道に弟子たちを招きました。先週の箇所では「仕える者になる」「子どもの一人を受け入れる」ということが言われていましたが、それに続くきょうの箇所でも、イエスに従う弟子たちの生き方とはどういうものかが示されると考えたらよいでしょう。つまり、ここには、弟子たちの生き方についての教えだけでなく、イエスご自身の十字架の道がどのようなものであるかということも示されていると言えそうです。
教会暦と聖書の流れ |
先週の箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所(マルコ8章27-35節)でしたが、きょうは少し飛んで、2回目の受難予告と言われる場面です。マルコ福音書の3回の受難予告では、いつも同じパターンがあります。
(a) イエスはご自分の死と復活を弟子たちに予告する。
(b) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれなことを考えている。
(c) イエスはその弟子たちにご自分の受難の道の意味を語り、弟子たちを同じ道に招く。
この2回目の受難予告でも同じパターンが見られます。
教会暦と聖書の流れ |
耳が聞こえず口のきけない人をいやした先週の箇所(マルコ7章31-37節)からは少し飛んでいます。きょうの箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の場面です。ガリラヤでのイエスの力強い活動を伝えるマルコ福音書の前半(1章1節~8章30節)と十字架と復活への道を歩む後半(8章31節~16章8節)のターニングポイントとも言える重要な箇所です。